『否定と肯定』(Denial)
監督 ミック・ジャクソン

 ホロコースト否定論者の歴史家と称するデイヴィッド・アーヴィング(ティモシー・スポール)が、最初にデボラ・リップシュタット教授(レイチェル・ワイズ)の前に姿を現わしていたのは、1994年だとクレジットされていたが、かなり遠い記憶に“ホロコーストの存否”が裁判で争われているという新聞の外電記事を読んだことがあったことを思い出した。

 よもや法廷で争われるようなことだとは思ってもいなかったので、大いに驚くとともに、こんなことが起こり得るのであれば、日本で南京虐殺を否定する者が現われるのも尤もだと妙な納得感が湧いた覚えがある。当時、学説論争ではなく法廷闘争になるのは何故かと思ったのだが、やはり名誉棄損であったかと本作を観て了解が得られた。我が国でも南京虐殺や慰安婦問題などを巡って似たような裁判沙汰が現に起こっている。

 それにしても、何がアーヴイングのような輩を生み出すのだろう。訴えたのがアーヴィングの側だったのは意外だったけれども、それなら完全に世間の注目を集めるためのものだったような気がするのだが、本作ではあまりそのようには取り扱っていなかったように思う。売名事件的なものに矮小化することで観過ごされてしまいがちになることへの警鐘こそが、作り手の主題だったからなのだろう。あまりにも話にならない否定論者とは議論する気もないとしていたリップシュタット教授が已む無くながらも法廷対決を果たしたことの意義こそが、作り手の最も“肯定”したかったことのような気がした。

 でも映画としては、デボラよりもデイヴィッド・アーヴィングのほうを追う作品のほうが面白くなったのではないかという気がする。僕の一番の関心が「何がアーヴィングのような輩を生み出すのだろう」ということにあったからかもしれないが、その点では、演じたティモシー・スポールの存在感におんぶにだっこの状態だったように思われる点が少々物足りなかった。

 ともあれ、彼のような歴史修正主義者がレイシストであり、女性差別者であることにおいても重なる部分が多いというのは、南京虐殺や慰安婦問題を殊更に全否定したがるような自由主義歴史観を標榜する日本の歴史修正主義者たちとも共通しているように思った。チラシで表記が使い分けられていた「歴史家」と「歴史学者」が本作では、どのような言葉で表現されていたのか覚えていないのが残念だ。そして、デボラの台詞に「どんな意見を持つのも自由だけれど、それなら、嘘と説明責任逃れをしてはいけない。」というようなものがあって、全くその通りだと、いくつもの顔が浮かんだ。




参照テクスト:NHKダークサイドミステリー世紀の歴史裁判 事実か?ねつ造か?~歴史学者たちの闘い~観賞日誌
 
by ヤマ

'18. 5.29. 民権ホール



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