『ザ・スクエア 思いやりの聖域』(The Square)
監督 リューベン・オストルンド

 いささか愚鈍にさえ思えるほどに迂闊で凡庸なクリスティアン(クレス・バング)の人物造形に少々難があったけれども、巻き込まれ形で話を転がしていくうえでは止むを得ない部分もあり、その凡庸さが軸にあるからこそ、チンパンジーを室内飼している米人ジャーナリストのアン(エリザベス・モス)や常識外れの動画投稿を美術館の公式サイトからしてしまう美術館関係者たち、猿男のオレグ(テリー・ノタリー)といった実にエキセントリックな登場人物が引き立つのだろう。

 とりわけオレグには圧倒された。七年前の県立美術館外庭でのコープスパフォーマンス『ひつじを観たときに感じたような悪趣味を覚えずにいられなかったが、かのライブ・パフォーマンスでもそうだったように、見ものなのは動物を見事に模写しているパフォーマー以上に、そのパフォーマンスをどう受け止めていいのか困惑している観衆のほうであるという挑発的な構造になっていたように思う。奇しくもどちらも提供しているのが美術館である点が興味深い。

 そして、誰もが公平に扱われる聖域としての“スクエア”というのは、もしかするとスクリーンのことを指しているのかもしれないと思った。「映画と文学だけは、辺境の地にあってなお本物に触れられる数少ない芸術である」との言葉を遺してくれたのは、十八年前に不慮の事故で亡くなった地元の芸術批評家の細木秀雄氏だが、四角いスクリーンに映し出される映画の世界は、本作でスポットを当てられていたジェンダーや貧富、居住地の差異に隔てなく、まさしく“公平な姿”で提供されるものだ。

 ミュージアムという場に設けられると、日常ありふれたものでもアートになるのかといった問題提起も冒頭で為されていたように思うが、映画として切り取り、スクリーンに映し出されると、というのは、ある意味、ミュージアムにも置き換えることのできる部分があるような気がする。若干の差異があるとすれば、権威の部分だと思うのだが、ミュージアムのキュレーターとシネマのディレクターを比すると、やはり学術的優位は今なお断然、キュレーターのほうにあるような気がしなくもないが、御粗末な展示管理により損傷した展示物をこっそり直しちまおうとしていたクリスティアンの粗忽さを観ても、集客と資金調達に追われるようになっているキュレーターたちの学術的権威も相当に危うくなってきているに違いなさそうだ。

 前述したジェンダーや社会的格差の問題のみならず、表現の自由と自己検閲の問題やメディアの問題など、現代的な問題の諸相がなかなか興味深い切り口で取り上げられていたように思うものの、提示にのみ留まっていて少々物足りなくもあった。表現の自由と表現者の責任ということについては、クリスティアンが関与していないことで責を問われる投稿動画とまさにクリスティアン自身が行なった投函文書の対照が効いていたように思うが、アンの人物像など、もっと彫り込んでもらいたいように感じた。

 
by ヤマ

'18. 5.15. ウィークエンドキネマM



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>