『パターソン』(Paterson)
監督 ジム・ジャームッシュ

 最終日の最終回、からくも滑り込んだ。観逃さずに済んでよかった。凡人のなかの非凡が描かれているなどと言われているらしいイーストウッドの15時17分、パリ行きのスペンサーたちと違って、玩具の拳銃を取り押さえただけのパターソン(アダム・ドライヴァー)は、同じように俊敏な身のこなしを発揮しても英雄と称えられることはない。そんな平凡のなかの平凡を描いて、心に沁み入る非凡な作品に仕上げたジャームッシュに感心した。劇的とは程遠い日常のルーティーンを鮮やかに映し出して、再び始まる月曜日に新たなる感慨を添える見事な出来栄えで、観ている最中以上に観終えてからの反芻に味わいのある作品だったように思う。

 週末の出店でカップケーキを売り上げた286ドルの臨時現金収入に妻のローラ(ゴルシフテ・ファラハニ)が浮き立ち、詩を書き溜めたパターソンの大事なノートが、ソファーでのクローズアップによって促された予感通りにズタズタにされてしまう失意が、それぞれ幸不幸の極大であるような平凡さを、毎朝のベッドの様子を始めとするルーティーンの丹念な描出によって映し出すことで、繰り返される日常の“同じと違い”を鮮やかに浮かび上がらせていたような気がする。似たようなアイデアは少なからぬ人が思い付きそうなのだが、その出来栄えとしては、映画的になかなか真似のできない芸当のように感じた。鍵を握っていたのは、やはり詩心なのだろう。

 パターソンという名の街に生まれ育った名もなき詩人パターソンに「詩は私のすべてです」と語っていた大阪の名もなき詩人(永瀬正敏)と違って、詩を「私のすべて」などとはついぞ思ったことはないけれども、僕もノートに詩を綴っていた時期があることを思い出した。十代の時分に始めた詩作の最後はいつだったかと帰宅後、ノートを紐解くと、1999年6月6日の『オブセッション』と題するものが最後になっていた。二十年前、四十路に入ったばかりの頃だ。でも、僕もパターソンと同じく、せっかくケータイを持たないようにしているのだし、還暦を迎えるのを機に久方ぶりに創作ノートを携えるようにしてみようかなどと思わせてくれる作品だった。

 チラシに記された「自分らしい生き方をつかむ手がかりは日々の生活にある」との解説見出しの言葉が、本作の核心を衝いているように感じられ、円卓 こっこ、ひと夏のイマジン』の映画日誌にも記した、僕の座右銘「自分の納得する一日を持て」というフレーズのことを想起した。感情の起伏をほとんど見せないパターソンの日々の生活においても、ある種の納得感というものが根底にあるような気がした。それを支えているのが妻ローラの存在であることが静かに沁み渡ってくる。

 それにしても、彼の妻、の人物造形は、平凡のなかの平凡では決してなく、明々白々に非凡だった。あの屈託のなさ、感情を表に出さない夫の心情の把握力と見せる心遣い、大したものだった。妻が何気なく発した「双子がいいわよね」との言葉で、矢庭に双子が目につくようになるパターソンの心情を表しているかのような双子の頻出が妙に可笑しく微笑ましかった。エンドロールのクレジットの流し読みでは、3組しか表示されなかったように思ったけれども、画面には5組は出て来ていた気がする。双子に限らず様々な小ネタが仕込んであって、なんだか絵本『ウォーリーを探せ』のような風情もあって、再見のほうがより愉しそうな作品だ。




推薦テクスト:「TAOさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1962406467&owner_id=3700229
推薦 テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/hotondo_ke/18022501/
 
by ヤマ

'18. 3. 2. あたご劇場



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