『君の膵臓をたべたい』
監督 月川翔

 生きるとは何かと問われて「人と心を通わせること」と答えられる高校生がそうそういるとは思えないし、偏屈気味の志賀春樹(北村匠海)が認め讃えた破格の心の靭さを発揮できるような高校生がいるとも現実には想像しにくいが、山内桜良を演じた浜辺美波が、その名の通り、静かに弛まず浜に寄せては返す波の美しささながらに、淡々と毅然と自分に迫りくる死に向かっている姿を、実に魅力的に演じていて心打たれた。

 思えば、本作が間違いなく影響を受けている死ぬまでにしたい10のこと['03]でも、サラ・ポーリーの演じたアンに現実感がないといった批判がされていたことを思い出した。

 しかし、自身の病を治すためであれ、自身の内にその人の魂を宿らせるためであれ、“膵臓をたべたい”とまで思ったことなどない者が想像する現実感など、たかが知れており、自身の命に対してであれ、相手の存在に対する想いであれ、途轍もなく真剣で強い思いで向かわざるを得なくなれば、凡人の想像する現実感など、事もなく飛び越えていくことがあるのもまた、人間なる存在の現実だという気がする。

 桜良が口にしていた“運命でも偶然でもなく、選択の積み重ね”による帰結なのだという態度で、微笑みながら事態に立ち向かえる靭さもさることながら、彼女が春樹に対して、かような靭さを発揮する重たい存在を傍らに置いて“普通に接すること”のできる靭さを感受しているところに痺れた。そして、その桜良を傍で見守り続け、感化されつつ、彼女に憧憬を抱かせた春樹の“優れて繊細な鈍感さ”が何だか好もしかった。

 あの年頃の青年ならではの臆病なストイックさや律義さというのは、もう疾うの昔になくしてはいるものの記憶の片隅にはまだ残っていて、僕には、若い春樹が非現実的には映ってこなかったことも大いに作用していると思われるが、なかなか味わい深い作品だった。

 初めて名前で呼ばれたと怪訝な顔をした春樹に近づき、6月になっても満開の桜を見ることのできる場所を教えた「ガム、いる?」くんの宮田(矢本悠馬)が、ちょいとかっこよかった。名前を呼ばれることに対するそういう経験をしていながら、けっきょく山内桜良の名前を呼ぶことなく別れることになった春樹の迂闊さは、6月の桜を観ることができていたら、解消されていたのではないかとは思うが、そしたら桜良は、サン=テグジュペリの『星の王子さま』に、どのような手紙を挟み込んだのだろう。

 春樹が過去に好きになった娘の話に桜良が感心したときに語られた春樹の言葉通りに、何にでも「さん」をつけることが直ちに敬意を表しているとも思えないが、そうすることが“全ての物事に向かう態度として払っている敬意”のように感じられる形で表れる人は、確かに素敵だ。まさに桜良と春樹の関わりには、根っこのところでそのような敬意が払われていることがよく伝わってきて、とても気持ちがよかった。しかも、そういう物語のなかにあって、春樹が桜良に向かって「ふざけるな!」と叫ぶ場面がきっちりあるところがいい。

 聞くところによると、原作小説には本作で描かれた12年後のエピソードはないそうだ。さすればこれは、世界の中心で、愛をさけぶ』の映画化作品と同じような、原作に対するアンサームービーなのだろう。同時にまた、原作小説のモチーフとなった『死ぬまでにしたい10のこと』に対する作り手の異論というアンサーにもなっているところに感心した。

 死に至る病を抱えたアンが「2.娘たちの気に入る新しいママを見つける」としていた『死ぬまでにしたい10のこと』では、彼女が願った自分と同名の隣人アンが継母になる形で叶えられていたが、本作では、それに替えて桜良頼りの恭子に新しい“仲良しくん”を見つけるとなっていたわけで、12年後には別な回答を構えていた。夫や娘たちを含め、彼女と関わった人たちのその後の人生を、まるで“私は居ないけど私の人生”とまで言えるほどの大きな影響を与える足跡を残したアンとは違い、恭子は、桜良が遺し託したままに春樹と結ばれるのではなく、“運命でも偶然でもない選択”として、ガムくん宮田を選んでいた。そのアンサーが僕はかなり気に入っている。委員長を桜良にプッシュした恭子の“男を観る目のなさ”は、かつて桜良が友だちのいなかった恭子に声を掛けて彼女を変えたのと同じように、桜良が委員長ではなく春樹を選んで見せることで彼女を成長させたから、桜良が遺し託した通りになるまでもないということなのだろう。

 他方、春樹のほうは、桜良の思い付き通り国語の先生になっているものの、彼女のいちばんの願いだった「人と心を通わせて生きること」については、12年経ってもうまくできずに退職願いを引き出しに入れていたわけで、“My Life Without Me”を原題とする『死ぬまでにしたい10のこと』のように、思惑通りにはなっていないのだが、思い掛けなくも図書館改築を契機に、今はなき桜良が春樹のなかで回想という形で再び関わってくるようになることで、回想に留まらない出現を果たし、春樹の行き詰っていた窮地にブレイクスルーを与えていた。やはり人生は“運命でも偶然でもなく、選択の積み重ね”なのであって、死者が生前に描いた設計どおりであってはいけないのだ。

 そのうえで、実際に互いの膵臓を食べあった二人ではないけれども、奇しくも互いが互いに対して『君の膵臓をたべたい』との言葉を届かぬままに送り合っただけのことはある二人のその後でなければならないわけで、それに見合ったアンサーが描かれていたように思う。

 破格の心の靭さを発揮して実に健気に生きていた桜良であったけれども、他の人なら発揮できないような“普通さ”を揺るがせない春樹に対しては、そこに甘えるように、強引な自分のペースをぶつけていくし、泣き言も垣間見せたりしていたところがミソだという気がする。彼女にとって春樹が如何に掛け替えのない存在だったのかが偲ばれる部分だ。先に触れた「2.娘たちの気に入る新しいママを見つける」ではなく、「7.夫以外の気に入った男とセックスをする」を置き換えたような付き合ってない男の子といけないことをするについては、結局“いけないこと”はできずに深く付き合ってしまうという裏返したような顛末になっていたわけだが、原作小説によるであろうこの意匠も、なかなか悪くないように思った。

 ひとつ注文をつけるなら、恭子が結婚式の招待状を出していたらしいことには違和感があった。あれは、恭子にそのつもりはなく、宮田が出したものとすべきだと思った。だが、恭子の結婚相手が桜良の遺し託した春樹ではなく、宮田でなければならないことには、作品的必然性があるような気がする。春樹にするわけにはいかないのだから、やはり映画的には「ガム、要る?」くんでなければいけないように思う。
 
by ヤマ

'17. 9.10. TOHOシネマズ8



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