『永い言い訳』
監督 西川美和

 映画でも小説でも「喪の仕事(グリーフワーク)」を描いた作品は少なからずあるが、後悔とか遺憾といった言葉では表せない多義性を帯びた“リグレット”に焦点を当て、これほどに描出し得た作品には、あまりお目にかかったことがないように感じた。

 自分と同じく長距離深夜バスの不慮の事故で妻を亡くしたことで、喪失の悲しみに真っ直ぐに向き合える大宮陽一(竹原ピストル)に対して、妬みと軽侮という相反する思いを抱きながら、取りあえずの“身の置き処”を亡妻と昵懇だった大宮家の遺児の世話に求めていた衣笠幸夫(本木雅弘)の何ともめんどくさいキャラクターというのは、原作・脚本・監督を担う西川美和自身を投影したものに違いないという気がしてならなかった。

 悲しみや思慕を「半年やそこら(幸夫が「七か月だ」と口を挟む)で断ち切れるわけがないでしょう」と言う陽一よりも、幸夫のほうがずっと複雑な引き摺り方をしていることが巧みに表現されていたように思う。小学六年の大宮真平(藤田健心)の国語の勉強をみてやっている場面で「深さ」という言葉を持ち出すことによって、幸夫の“複雑な引き摺り方”を単純に“深さ”と評することへの禁止令を観る側に掛けているような西川作品らしい周到な細やかさが随所にあって苦笑した。

 小説家の津村啓としての幸夫が手帳にしたためていた「思えば、僕は子供の寝息というものを聴く夜を持ったことがなかった」というようなメモに倣って記せば、「思えば、僕は幸夫のようにリグレットを愛にまで昇華させる引き摺り方をしたことがなかった」という思いを抱いた。チラシに記された妻が死んだ。これっぽっちも泣けなかった。そこから愛しはじめた。というような幸夫の引き摺り方は大宮陽一には、とても真似のできないことだという気がする。

 タクシーのドアを開いたまま、後を追って来た陽一に「僕はあんたとは違うんだ」と言った幸夫は、事故当夜に浮気相手の編集者(黒木華)と亡妻のベッドでセックスに耽っていたことを指してその言葉を使っていたが、僕にはそれだけには思えなかった。幸夫にしても西川美和にしても、表現者を生業にしている人の負っているものは、本当に難儀だと改めて思う。

 そんな人物造形を果たしていた西川美和が文字にして映し出していた二つの言葉が気になった。衣笠夏子(深津絵里)がケータイに遺していた未送信の愛していません。ひとっかけらも。と、衣笠幸夫が手帳に長々と書きつけていた末尾にあった人生は他者であるの持つ意味を、もう少し反芻してみたいと思った。人というものの発する言葉には、字義とは別に意味があって、より重要なのは、字義ではなく意味だったりする。

 妻に向かってキヌガサ・サチオという名を負っている者の気持ちなど、そういう著名人の名と同姓同名に生まれついてないと分からないといった言葉を発するとき、より重要なのは、その気持ちが分かるか分からないかということではなく、その言葉を発することで示している相手への拒絶という意味のほうだったりするわけだ。

 反芻するなかで、夏子の未送信のメールについて僕が想起したのは、二十五年前に観た三月のライオンでの老夫婦の居宅の冷蔵庫の奥に密かに置かれていた毒薬の瓶だった。当時の映画日誌には穏やかに永続する愛情を支えるのが関係性へのテンションの高さだという認識として言及しているが、秘めたる決意と緊張感を象徴する小道具として映し出されていた覚えがある。『三月のライオン』では老夫婦だったし、庭先での慎しく穏やかな散髪だったことに対して、本作では中年夫婦の室内での散髪だったが、見事に慎しい穏やかさとは対極にある冷ややかに尖った時間が流れていた。そして、美容師である妻が夏子で『三月のライオン』のヒロインであるナツコと同じ名前なのは偶然の一致ではないと僕は思っている。『三月のライオン』もまた当時の日誌に記しているように失くしていくもの、壊されていくものへのこだわりとそれを取り戻すことへの呼び掛けを描いた作品だった。もし仮に著名人と同じ名を背負った主人公の名前がキヌガササチオではなく、ミナミハルオなりミズノハルオだったりすると、まさに矢崎作品と符合するハルオとナツコの物語になるのだけれども、さればこそ意図的に避けてキヌガササチオにした気がしてならないでいる。

 幸夫が手帳に書き付けた言葉のほうは、まさに他者のごとく己が思うままにはならないものだとも、関わる他者次第だとも言える部分を指しているように感じる。真平の人生は、幸夫との関わりの有無によって、単なる中学受験の可否以上の違いがあったはずだし、幸夫もまた彼らとの関わりがなければ、再び賞を受けるような作品を書くことはなかったはずだ。かなり増長していたと思しき幸夫の素にあった人間性を“取り戻し”てくれたのは、亡妻が残しもたらしてくれたとも言える大宮父子との関わりだったように思う。始めのほうで描出された不遜極まりない思い上がった幸夫というのは、やはり小説家の津村啓として成功し、まわりから「先生、先生」とチヤホヤされることでもたらされた増長なのだったのだろう。誰しもが最も嵌まりやすい陥穽だという気がする。

 それにしても、終盤の真平と幸夫の汽車のなかでの対話の場面は良かった。真平くんは、かような言葉を発することのできる幸夫と出会って、作家に憧れ、さらには志すことになったのではないかと、幸夫の新作の受賞記念パーティでのスピーチ場面を観て思った。




推薦テクスト:「眺めのいい部屋」より
http://blog.goo.ne.jp/muma_may/e/d195f7c8b447c28e857205833f47aeca
 
by ヤマ

'17. 4.12. あたご劇場



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