『LION/ライオン ~25年目のただいま~』(Lion)
監督 ガース・デイヴィス

 なぜタイトルがライオンなのだろうと思っていたら、最後に腑に落ちた。確かに、街の名前どころか自分の名前すら正確に覚えていられなかった、オーストラリア育ちの29歳の青年サルー(デヴ・パテル)が、5歳の幼児(サニー・パワール)のとき以来となる生まれ故郷のインドの街をグーグルアースで突き止めたのは奇跡的なことだ。

 だが、僕が実話であることに最も驚いたのは実は別な部分だった。インドの浮浪児を引き取って養育したオーストラリア人夫妻のジョン(デヴィッド・ウェンハム)とスー(ニコール・キッドマン)が、子供に恵まれないからそうしたのではなく、地球人口が増えすぎているなかにあって、自分たちの子供を設けるよりも恵まれない子供を引き取って育てることのほうがずっと意義深いと考えての人生の選択だったというのだ。この論理的には極めて正しくも、人間的には容易に理解しがたい稀有な選択をした夫婦に対する、まるで試練と果報のような物語だと思った。

 サルーの引き取りから遅れて一年後に養子にしたマントッシュ(ディヴィアン・ラドワ)の養育には、サルー以上に苦労したようだが、ある種、摂理に背いているとも言える崇高な理念を掲げた夫妻に対して、人知を超えた存在が、25年に渡って試練を課しつつもなお、夫妻が挫けそうにもなりつつ持ち堪えているさまに、奇跡の果報を与えたような気がしたのだ。マントッシュのみならず、自慢の息子だったサルーまでもが夫妻からすれば不本意な生き方を近年は選ぶ形になっていたことが、余計にそのような印象をもたらした気がしている。

 でも、僕が最も心打たれた登場人物は、養父母夫婦ではなくてサルーの兄グドゥ(アビシェーク・バラト)だった。そして、最も好きな場面は、サルーの回想として終盤に現れた兄弟で線路を歩くシーンだ。アビシェーク・バラトの笑顔がとても深く胸に沁みた。そしたら、思い掛けない顛末が最後に明かされるばかりか、エンドロールの最後に、兄グドゥへの献辞がクレジットされた。やはりそういう作品だったわけだ。

 25年ぶりに奇跡の帰還を遂げて教えられた兄の死の顛末を彼が知るためには、やはりそれだけの歳月は必要だったかもしれない。あの日、自転車を持ち上げてまでして自分が無理を言わなければ起きていなかったことだという事実を突きつけられたときのサルーの胸中がいかばかりだったかを思うと、30歳になっていても、なかなか持ち堪えにくい出来事ではあるような気がする。あの頼もしく優しく強い兄が…と絶句したことだろう。そういう意味でも、“25年目のただいま”は、天の配剤であるような気がした。グドゥの件は、弟のスイカ事故の件で母親からきつく叱られたことがあってのことだと思う。弟の姿が見えなくなったことに動転し必死になって探しているうちに巻き込まれた事故死のような気がしてならなかった。

 映画の造りがそうなっていたのは、サルーの想いがそこにあるからだろう。そして、コルカタで最初にベンガル語ではなくヒンドゥ語で話しかけ親切にしてくれた女性の元を逃げ出したときに感じ取った虫の知らせとしての危険察知も、それ以上に先の見えない話に乗って豪州への移住を決めたことにも、きっと兄の見守りがあってのものだと感謝しているサルーの姿が思い浮かんだ。そのように感じられるような兄グドゥの描き方だったから、最後の献辞にグッときたように思う。

 サルーの名前の意味はエンドクレジットで示されたが、兄グドゥの名前の意味は知らされなかったので、是非それを知りたいと思った。カタカナで表記されたその名から、本作を観終えた僕が連想したのは図らずも“ゴッド”だったからだ。ヒンドゥ語だから、そうはならないはずだけれども、兄グドゥの魂が敢えて25年の時を置き、義兄マントッシュとの関わりも経させたうえで自分を生まれ故郷に戻してくれたのだとサルーが感じているような気がしてならなかった。そのような兄への想いが偲ばれる脚本だったように思う。

 母子の絆に焦点を当てた本作は、多くの人にとっては約束の旅路のような生母と養母の物語として映る部分が大きいのかもしれないが、それで言えば、僕が最も驚いたのは養父母の生き方だったけれども、映画作品として最も心に響いてきたのは母子関係以上に、豪州での兄弟のところも含めて、兄と弟の物語の部分だった。サルー・ブライアリーによる原作ではおそらく、異人種の複雑な家庭環境に育った自分を勇気づけ受け入れてくれたルーシー(ルーニー・マーラ)との関係もかなり綴られていたのではないかと思うが、ざっくり簡略して家族の物語にしていた脚本を僕は支持している。
 
by ヤマ

'17. 4.15. TOHOシネマズ2



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