『聖の青春』
監督 森 義隆

 夭逝した天才棋士の村山聖(松山ケンイチ)が口癖のように言っていた牛丼は吉野家、シュークリームはミニヨン、お好み焼きならみっちゃん…に限らず、幼い時からさぞかし我の強い子だったのだろう。子どもの時分に病院でネフローゼだと診断された際に、母親(竹下景子)が医師から「なぜもっと早く連れてこなかったのか」と責められていたが、なかなか言うことを聞くような子じゃなかったに違いない。

 だから、己が生の残された時間が長くないことを知りつつも、不摂生を重ねる聖を誰もセーブできなかったのだろう。飲酒にしても摂食にしても、もう少し節制して養生していれば、二十代で亡くなることはなかったのではないかという気がしてならなかった。

 囲碁がけっこう好きな僕はTV観戦したり打ったりするのだけれども、将棋のほうはルールや多少の陣形を覚えているにすぎず、大山、升田、中原、加藤、米長、谷川といった名人の名前くらいは知っているものの、将棋ファンでもないので村山聖のことは何も知らなかった。そのためか本作を観ていても、どことなく王将['48]の関根名人と坂田三吉の構図を思わせる人物造形の施し方についつい「小春は何処や~」などと思ってしまった。

 そういったメモをフェイスブックに記していたら、子どものときに専門医に診せるのが遅れたのは最初に診た町医者が難しい病気ではないと診断した経緯によるものだと教えられた。さすれば、村山の性格のせいではなさそうだということになるのだが、それを聞いて、作劇的にはそのへんの事情を割愛したことによって村山のキャラクターを強く印象づけることに奏功している脚本(向井康介)の功績に気付かせてもらった。また、併せて教えられた話によれば、村山が唯一タイトル戦を戦った相手は羽生ではなく谷川浩司名人で、村山は羽生より「打倒谷川」を強く意識していたのだそうだ。羽生と村山は同世代だし谷川より羽生のほうが世間的に知られているので変えたのだろうとの見立てで「村山と羽生の居酒屋のシーンは完全に向井康介の創作なんです」とのことだったが、さすれば、本作における最も重要な場面が原作にもない脚本段階での創造だったことになるわけで、実に驚くとともに大いに感心した。そして敢えて『王将』の構図を思わせるような造形を施すのは、本作における脚本家の確信的な意匠だったのだなと思った。

 師匠である森(リリー・フランキー)が村山の棋風を問われて、“野生”だったか“野獣”だったか、そのように評した台詞があったが、同じ天才同士でありながら全てに対照的とも言える羽生名人が「全く趣味が合いませんね」と微笑み合ったのちに「今日あなたに負けたことが死ぬほど悔しい」と静かに語る場面を設えていた居酒屋シーンは、本作の白眉ともいえる重要な場面だ。最初の「客をほったらかしにしてくれる親父がいい店なんだ」と村山が言った傍から「後でサインください」と親父が羽生四冠に言ってきて、初めて二人で酒を飲む羽生が村山を見ながら微妙な顔をするところから入るあたりからして、なかなか巧かった。この場面があるからこそ最後の再対決での、対照的な二人の内面に潜む“共通する強烈な闘争心というか獣性”を帯びた苦悶を見せる姿が引き立ってくるわけで、なかなかよくできた脚色だと思った。全体としては、二時間越えにならないように撮れなかったかという思いが残ったが、これは脚本ではなくディレクターのほうの所管事項になる気がする。

 その監督所管事項ということでは、SNSに記した僕のメモに関して、この再対決の場面について戴いたコメントから思ったことがある。コメントは…羽生さんの語りの再現部が、初出シーンと違うテイクを使っていたのが気になりました。(もうはっきり覚えていないのですが、「海の底から浮かび上がってこられる」を、二回目のときには{~これる」になっていた…というような感じの違い)とはいえ、あの羽生さんとの対決シーンはよかった。というものだ。

 近頃の映画の傾向として、エンドロールでは必ず村山本人の画像が出てくるに違いないと思わせるような松山ケンイチの熱演だったのに、本作にはそれが全く出て来なくて大いに意表を突かれたのだが、「これる」と「こられる」の言い違いに僕は気づいていなかったものの、違うテイクだとは感じていたような気がする。そして、これに関しては、再現させるなら違うテイクであってほしいと思った。それというのも、単純に観客に前出場面を思い出させるために再出させる編集が最近の映画では余りにも目立っていて、大いに興を削がれることが多いからだ。しかし、このように違うテイクで再現されると、先の場面の想起を促されている感じが湧かずに、登場人物のなかで思い出しているなり思い返している場面になる。そこには大きな意味の違いがあるわけだ。

 そのようにコメントを返すとなるほど~!!! いかにもきちんとした日本語を話す羽生さんと、「ら抜き言葉」を話す聖との違いを示すわけですね。そこまで考えが至りませんでした。とのコメントが返ってきたが、大きな意味の違いというものがその部分にあるとまでは、僕のほうが思い及んでおらず、大いに刺激を受けた。

 それにしても、松山ケンイチもさることながら、羽生善治を演じた東出昌大には驚いた。僕が村山聖を知らないから、松山ケンイチがどこまで本人に迫っていたかは測り難いけれども、垣間見知っている羽生善治には、その佇まいがそっくりで、対局中の迫力には圧倒された。いつの間に、こんな演技巧者になったのだろう。ハイライトシーンとも言うべき再対決の場面で鬼気迫る羽生名人を確かな迫力でもって演じ切り、いささかも滑稽に映らなかったことに大いに感心した。

 また、SNSでは『3月のライオン』の主人公の桐山のライバルである二階堂のモデルが村山聖だという話も教えてもらった。僕は『3月のライオン』についても全く未知で、映画版の予告編しか知らない。ただ、矢崎仁司監督の同名作品についての僕の映画日誌を読んだ方から、タイトルの由来について教えてほしいとのメールをいただいたことが随分前にあって、同じタイトルの人気漫画があるらしいことを知った覚えがある。

 主人公の名前【桐山零】も何だか【村山聖】から来ているように思える名前だが、そのライバルがストレートに村山聖をモデルにした棋士となれば、予告編で桐山を演じていたメガネを掛けた神木隆之介の姿からも、もしかすると『聖の青春』に羽生四冠を置くというアイデアは『3月のライオン』の桐山から来ているのかもしれないとも思った。そして、『聖の青春』は「村山さんをちょっと貶めている気がし」たとも聞いて、脚本の向井康介が確信的に“坂田三吉イメージ”を盛ろうとしていたのだなという気がしてきて、ますます本作の底流は『王将』['48]にあるとの思いが強くなった。映画というものは、いろいろな人の知識・技量・想いの集積だから、本当に愉しいと改めて思う。

 こういう楽しさを解せずに、すぐにパクリだのパロディだのと言い出す輩も少なくないが、映画に限らずそもそも表現において純粋オリジナルなどというものは、それが表現に足るだけの表現なら有り得ないというのが僕のかねてからの思いだ。そういう表現作品を味わううえでは、観る側も同様にいろいろな人の知識・観賞技量・想いを寄せ合わせることができると、楽しさが倍加するということを改めて感じた。きっと映画に限った話ではないはずだ。




推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/hotondo_ke/17032001/
 
by ヤマ

'17. 3.20. あたご劇場



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>