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『ムーンライト』(Moonlight) | |||||
監督 バリー・ジェンキンス
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むろん悪くはないのだが、これならアカデミー賞で作品賞を争った『ラ・ラ・ランド』のほうが好みだなと思いながら観たのは、僕がムーンライトを浴びて青く輝いたことがないから、なのかもしれない。 リトルと呼ばれたシャロン(少年期:アレックス・ヒバート、青年期:アシュトン・サンダーズ、壮年期:トレヴァンテ・ローズ)にその自覚がなかったように、妻子を得ていたケヴィン(青年期:ジャハール・ジェローム、壮年期:アンドレ・ホランド)にもその自覚はなかったように思う。あらかじめ自覚のあるなしと目覚めとは無縁のもので、ゲイとかバイとかいうのともまた少し違う感覚のような気がした。きっとそういうところから始まるものなのだろう。 本作の骨格からすれば、得てしてそういった性的アイデンティティを描いた作品だと受け止められがちだという気がするが、その問題は、彼らがアフリカ系アメリカ人であることと同様の社会的弱者たる要素の一つとして、作劇上の設定に加えられているに過ぎないと思う。 主題はむしろ、マイノリティであり弱者であるが故に切実な“シャロンの痛み”であったような気がする。それで言えば、リトル【第1章】・シャロン【第2章】・ブラック【第3章】で受けていたシャロンの痛みのなかでは、僕には第1章のリトルと呼ばれていたシャロンの痛みが最も響いてきた。僕に幼い孫がいるせいかもしれない。シャロンの慕う麻薬の売人フアン(マハーシャラ・アリ)やその情婦テレサ(ジャネール・モネイ)という救いはあったものの、薬物依存のアダルトチルドレンと思しき母親ポーラ(ナオミ・ハリス)からシャロンの受けている痛みのほうがやはり応えた。 それにしても、少年期・青年期・壮年期の配役に、もう少し連続性を感じさせるような配慮はなかったのだろうか。パーソナリティについての変化と継承を感じさせるうえでは、ある程度、同一人物であることの了解が得られやすい配役にしてほしかった気がする。ポスター・チラシに敢えて三人のシャロンの顔のコラージュ写真を使っているのが妙に言い訳がましく感じられた。それとは別に、母親らしくふるまえないポーラから嫉妬されるテレサを演じたジャネール・モネイには、その知的で豊かな母性と肢体によって大いに魅せられた。 推薦テクスト:「TAOさんmixi」より http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1959791230&owner_id=3700229 推薦テクスト: 「眺めのいい部屋」より http://blog.livedoor.jp/hayasinonene/archives/50425397.html | |||||
by ヤマ '17. 7.17. あたご劇場 | |||||
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