『未来を花束にして』(Suffragette)
監督 サラ・ガヴロン

 原題の“女性参政権論者”を『未来を花束にして』と改題した邦題作成者は天晴れだと思った。百年余り前の女性活動家たちが花束にした未来の訪れがいつになると信じていたかは、僕には皆目見当もつかないけれども、グローバル的には未だに果たせていないことが、本作の製作年たる2015年にサウジアラビアでも認められたことをクレジットしていたエンドロールによって示されていた。

 さしたる確信ではなく流れのなかである種、行き掛かり的に運動に目覚め、加わっていったモード・ワッツ(キャリー・マリガン)たちの闘争を目にした後、エンドロールで各国の獲得年がクレジットされていくのを眺めながら、敗戦後の民主化のなかで認められた日本の女性参政権が居並ぶ各国のようにはクレジットされなかったと思しきなのは、それが外来的なものだとしてスルーされたからなのかもしれないなどと思った。

 だが、ワッツや恰も自爆テロを想起させるように描かれたエミリー・デイヴィソン(ナタリー・プレス)、或いはイーディス・エリン(ヘレナ・ボナム=カーター)らのような急進的な“行動主義者”が日本にいたかどうかは知らずとも、彼女たちと同時期に青鞜社を率いて活動した平塚らいてうや市川房枝、更には彼女らに先駆けて19世紀中に町村会選挙での参政権を獲得した本県の“民権ばあさん”こと楠瀬喜多の存在を知る者からすると、少々残念に思われた。もし、1946年の日本の女性参政権の獲得を“外来的”とするのであれば、日本国憲法を“外来憲法”だとか“押し付け憲法”だという単純な捉え方をするのと同様の浅薄さということになる。

 その一方で、百年前のテロリズムに関して、そこに追いやられる人々の心境や行動類型、苦悩が、本質的に今のテロと何ら変わるものではないことを感じさせつつ、その発現自体は人間には危害を加えないよう図るなど、実に穏当で理性的に見受けられたことが鮮烈だった。逆に言うと、今のテロリズムがいかに凄惨で凶暴なものになっているかということだ。そして、権力側のテロリストたちへの向かい方にも同じことが言えるように感じた。

 また、繰り返し強調されていた“50年に及ぶ平和的運動の果てに”という言葉と、テロリストとなった女性活動家が発していた「世界の人口の半分は女性よ」との台詞に、ふと「イスラム人口は世界の人口の2割を超えている」と仄聞したことを思い出した。本作で取り上げられていた女性参政権が百年を超える時間のなかで決して縮小の方向には向かっていないことを歴史的事実として知っているなか、本作に描かれていたテロリストたちを力で抑え込むことが不可能だったことの示唆するものについて、思いを馳せずにはいられない。

 そのうえで興味深かったのが、モードの夫サニー(ベン・ウィショー)とイーディスの夫ヒュー(フィンバー・リンチ)の対照だった。サニーを取り立てて横暴な男権論者としては描かずに彼の限界を社会的なものとして描出し、妻のサフラジェットとしての活動に理解を超えた協力を惜しまなかったヒューに妻を部屋に閉じ込めて作戦行動への参加を阻ませる場面を設えていたことが目を惹いた。周囲からの視線に耐えられず怒りと離別に向かうサニーと、体調を気遣って強硬手段により阻止したヒューの二つの心ならずものの行動が描かれていたわけだが、未来を花束にした女性たちではない者の“心境や行動類型、苦悩”が女性参政権論者たちと同様にきちんと描かれていたことに感心した。
 
by ヤマ

'17. 7.21. 美術館ホール



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