『太陽のめざめ』(La Tête Haute)
監督 エマニュエル・ベルコ

 かつて矯正施設で教護を務めた経験があるために、あの好方向への兆しを見せながら忽ち自ら台無しにしてしまう少年たちの不安定極まりない掴みどころの無さへの苛立ちや無念、落胆を想起させられて動揺し、明らかに劇映画であるにもかかわらずドキュメンタリー作品と見紛うような、半端ない臨場感に圧倒されながら観た。

 そして、クレジットでエマニュエル・ベルコ作品と知り、二十年近く前に「アニエスb.は映画が大好き part2 “明日の映画作家たち”」と題する企画上映で少女を観て、鮮烈な印象を刻み込んでくれたことを思い出し、彼女の監督作品なら宜なるかなと大いに得心した。

 それにしても、このイントレランスな時代にあって尚、実に辛抱強い寛容と課題負荷によって社会不適応を矯正しようと臨んでいるスタンスに驚き、さすがフランスだと感銘を覚えた。近年加速度的に厳罰化と応報に向かって少年法や刑法を変えていこうとしてきた我が国の動向を思うと、本作がどのように受け止められるのか心許ない気さえした。

 原題の「頭を高く上げて」というのは、負い目引け目にまみれていてキレやすい彼らに、未來に向かう視線を求めるフローランス判事(カトリーヌ・ドヌーヴ)の心の声を代弁したものなのだろう。邦題の「太陽」とは、おそらくその“未来に向かう視線”ないしは、それを育んでくれる愛とか赤ん坊とかを複合的にシンボライズしたものなのだろう。どちらも、とてもいい題名だと思った。

 繊細で粗暴な、心の優しくて幼い非行少年フェランド・マロニーを演じたロッド・パラドが素晴らしく、彼の情けなくも哀れな母親(サラ・フォレスティエ)に心乱された。マロニー以上の札付きだったとフローランス判事が言っていたヤン(ブノワ・マジメル)が教育係の公職に就くに至っている設定が効いていて、そういう社会制度と実例のもたらす希望の光もまた邦題に言う太陽であって、テス(ディアーヌ・ルーセル)との間に赤ん坊を得た17歳のマロニーが将来たどり着く道のように感じられるエンディングだった。

 ヒリヒリするようなシビアさと危うさが少々しんどいような作品なのだが、後味の悪くないところがいい。だが、ヤンその人は、妻から離婚を突きつけられ、家庭生活が破綻したようでもあり、決して大団円に終るような物語ではないところに真骨頂があるような気のするエマニュエル・ベルコ脚本・監督作品であった。




推薦テクスト:「TAOさんmixi」より
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