『少女』
監督 三島有紀子

 相変わらずいかにも湊かなえ作品らしい悪意と不安が立ち込めていて、映画化作品として巧みに映像化しているように感じた。また、女子高生を演じてもコスチュームプレイに見えない山本美月に感心した。彼女の演じる草野敦子が「私も苦手」と言っていた女子高生なるものを務める一時期というのは、いわゆる思春期という概念では片付けられない特別なもので、確かに“夜の綱渡り”にも等しい危うさに満ちている気がする。

 桜井由紀(本田翼)が敦子に捧げて書いた小説に記したように、渡っているときは見えないけれども、夜が明けると頑丈な橋の上に横たわっている綱に過ぎないことに果たして誰しもが気づけるものなのだろうか。そうではないことを身に沁みて感じていればこそ、そうとでも思わなければ、とても立っていられないような魔の時間なのかもしれない。

 由紀の書いた小説を剽窃して新人文学賞を受賞した国語教師(児嶋一哉)のコレクション動画に収まっていた星羅と、敦子を痴漢恐喝の共犯者に仕立て上げていた紫織(佐藤玲)のツーショットプリクラを観ながら、頑丈な橋の上に横たわっている綱ではないからこそ、堕ちたとも言える二人のことを思った。

 女子高生なるものをかような魔の時間にしたのは誰なのだろう。昔からうら若き乙女の魔性というのは、文学的な主題にもなっているように感じるが、バブル経済に浮かれて日本社会の箍が外れ底が抜けた時期を経てからの女子高生というのは、それ以前の例えば川端康成原作の美しさと哀しみとなどで描かれていた世界の持っていたものとはまるで異なる闇と腐臭が漂うようになっている気がする。その違いが性的ニュアンスなどといった表層的なものではないことは、『美しさと哀しみと』を観れば一目瞭然なのだが、まさにバブル経済に象徴的なカネの臭いというものが大きく作用しているように感じられるのは、紫織がオヤジたちから巻き上げたカネでブランド品を買い漁ったりすることを持ち出すまでもなく歴然としているように思う。

 そのようなことを思うと、本作に描かれていた女子高生以上に、その対照として現れていた国語教師の小倉や、濡れ衣の痴漢恐喝に抵抗したことで職を追われ全てを失ってしまった高雄孝夫(稲垣吾郎)、紫織の父親で敦子に変質的な桃色遊戯を求めていた住宅販売員といった中年男たちの人物造形と抱えている闇が印象深かった。男たちにおける“夜の綱渡り”の時期は中年期だということなのかもしれない。

 そのようななか、手【由紀】、足【敦子】、腹【孝夫】と、それぞれ象徴的に目に見える傷を負っていた三人における“生の取り戻し”とも言うべき回生の姿が沁みてきた。いい作品だと思う。
by ヤマ

'16.10.15. TOHOシネマズ2



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