『美しさと哀しみと』('65)
監督 篠田正浩


 先頃観たジョゼと虎と魚たちの恒夫が抱いてしまうような、敗北感で二度と合わす顔がないと感じてしまうくらいの柔な感受性では、この作品の原作者である川端康成のような文豪たり得ないのは当然だとしても、本作に登場した鎌倉在住の作家・大木年雄(山村 聰)のほとんど“人でなし”に近い、対人関係における人間離れした神経のタフさには呆気にとられてしまう。だが、小説家などというのは殊更にそういうものなんだろうなと思わされる力を感じたところが、自分にとってこの作品の最も興味深い点だった。

 十五年前に四十の歳で十七歳の女学生だった音子を孕ませ、彼女の母親(杉村春子)から妻子ある身とは承知ながら娘と結婚してやってほしいと懇願されても、動揺を見せることもなく淡々と受け流していくばかりか、彼女が大木に棄てられ、小さな命を死なせて精神病院に入院するに至った後に立ち直り、画家として成功したら、音子(八千草薫)に十五年ぶりに不意に電話して、やおら除夜の鐘を一緒に聞かないかと誘いかけられるタフさには唖然としてしまう。

 しかも彼女は、大木とのことが原因で男を受け付けなくなったのかどうかは判然としないながらも、美貌の内弟子である坂見けい子(加賀まり子)とレズビアンの関係にあり、師を愛し憧れるけい子が、大木の妻(渡辺美佐子)が“恐いくらいの美しさ”と形容する魔性の魅力で大木と大木の息子(山本 圭)を誘惑し、大木の家庭を壊そうと身代わり復讐を試みるのだから恐れ入る。大木は、若き音子との顛末を小説にして作家としての地位を築いたようなのだが、けい子から「その後もいろいろおありだったのでしょう。なぜお書きにならないのかしら。」と問われ、「なかなか書かせてくれないんだ。小説家としては弛みだな。」などと嘯く。全編通じて、大木の不遜さが鼻持ちならないのだが、これが原作者が自身を髣髴させるような形で造形している人物像だとするなら、対人関係における人間離れした神経のタフさというのは、自身という人間に対する関係においても同様であるとの凄みに至っているとも言えるわけで、全く以て始末が悪い。

 それにしても、四十年前の八千草薫と加賀まり子の美しさには目を瞠る。レズビアンとしてのカラミのシーンの妖しさには観ていて少々動揺させられた。二人ともに厚めのぽったりした小さな唇がなまめかしく、そのくせ些かも生臭さのない透明感があって絶妙だった。とりわけ加賀まり子の魅力には異様なまでのものがあり、大木の妻の形容が少しも違和感を抱かせないところが凄い。男たちを誘惑した際のヌードシーンそのものは吹き替えだったのではないかと思われるようなショットだったけれど、台詞とその物言い、表情や仕草に宿っていた妖しさには演技以上の天性のものが感じられた。

 この作品は、僕が小学校一年生の頃の映画だが、音子の描く絵が池田満寿夫によるもので、音楽は武満徹といった贅沢さのなかでの、とことん不埒な物語世界の作品だった。それをこうして、今の歳になって観る機会の得られた貴重さが嬉しく身に沁みた。

by ヤマ

'04. 6.20. 県立文学館
      



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