| ||||||||||||
音楽茶房リベルテ第3回映画上映会 “おれは、ここを歩く~独自の映像表現を続ける作家達~”
| ||||||||||||
イメージフォーラム付属映像研究所卒の三人の映像作家の上映会だったが、僕がイメージフォーラム系の作品を観るのは、キリンプラザ大阪での“イメージフォーラム フェスティバル1995”以来になるような気がする。実験映画や個人映画と呼ばれる作品群自体からも随分と遠ざかっていたせいか、とりわけ村岡由梨のとても今世紀の作品とは思えない映画の肌触りに、“ノスタルジックな実験性”などという何だか矛盾したフレーズが湧いてきた。 音楽からしてベートーヴェンとクィーンだったりした『The Miracle』などは、作者による作品コメントに「時間という存在をこの手で殺すことを目的として制作」と記されていたから、確信的に狙っていたのかもしれない。映し出されたイメージ自体には、懐かしくも心惹かれるものがあった。 作中に「ピンホール日記」とクレジットされた『ピンホールダイアリー』は、作者自ら映像におけるデジタルとアナログの問題に触れつつ、最も原初的なピンホールによる映像で綴っていた作品だから、自ずと、いかにも“ノスタルジックな実験性”が漂ってくることになる。 そういったなかで、徳本直之の作品が“ノスタルジックな実験性”とは離れた印象を残していたのが興味深かった。作者による作品コメントに「結婚して10年。変わりゆく妻の姿と、妻が僕に魅せなかった姿。彼女についての不明瞭な記憶の中をぼんやりと歩き始めてみたんです」と記されていた『海の近くに住みたいと言ったのは妻だった』は、そのことから、個人映画系の作品なのだろうと思っていたら、徳本自身が撮影しているとは思えない眼差しの画面で物語が綴られ、意表を突かれた。 最初に最小限の状況説明をモノローグで示しただけで、決して台詞で物語を運ぼうとはしない語り口の中で提示されるイメージの喚起力には、なかなか惹かれるものがあったように思う。 10年間ずっと自分が育てたと最初に説明された観葉植物の生育は、おそらく彼が思うところの夫婦の関係性をシンボライズしているのだろうが、他方で、生活感の全く感じられないダイニングキッチンやリビングの佇まいが、彼が育てたと自負するものの実体性の乏しさや観念性を示唆していたように感じる。最初の説明にあった半年前に妻が他の男と関係を持っていたことの露見が、屋内に配置するには成育し過ぎていたとも言える観葉植物の消失に繋がっているとすれば、最後に提示されていた瓶差しの一枝葉というのは、何だったのだろう。夫婦ともに色濃く塗られた赤いペデュキアで官能性の強調された足の絡まりからは、一枝葉からのやり直しを示していたのかもしれないなどと思った。 また、本作のタイトルは、ずっと海鳴りや波の音を流すことで、台詞を排したうえで音楽をも配することを避けるために敢えて付けられた題名だという気がしたのだが、どうだったのだろう。直截的に情緒に訴える表現を排したうえでの感情表現を企図しているように思われたあたりにブレッソンの『やさしい女』['69]を想起したりもした。 | ||||||||||||
by ヤマ '16. 1.17. 音楽茶房リベルテ | ||||||||||||
ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―
|