『サウルの息子』(Saul Fia)
監督 ネメシュ・ラースロー

 収容したユダヤ人の身ぐるみを文字通り全て剥ぎ取り、素っ裸にして金品を掠め取った後、ガス室で大量に始末し、恣意的に解剖実験にも付していた悪名高きナチスのアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所について、いっさい物語ることなくひたすら描出に徹すればこうなるのかと、余りの息苦しさにいささかしんどくなった。

 サウル(ルーリグ・ゲーザ)その人自身と、彼がそれと認知したもののみを映し出すだけだから、背景も事情もぼんやりとしか理解できないのだが、敢えて実際の映像として、彼が積極的に認知していないものを全てぼんやりと映し出していたのは、背景や事情を語らないこと自体が確信的なものであることを示すためだったように感じた。

 このスタイル【文体】には、同時に非常に重要な作り手の意図が示されていたように思う。つまり、ナチスの暴虐に直接的に加担することで幾許かの生を延ばす道を選んだ「ゾンダーコマンド」と呼ばれるサウルの境遇においては、かほどに視野を狭めないと生き延びられないことが、実に直接的な映像として展開されていたわけだ。

 そして、際立った無表情とともに当てずっぽうに立ち回る彼の行動を観ていると、彼が息子と呼ぶ少年の亡骸をきちんと埋葬したいという意思さえも、その意味と彼の囚われがどこからくるものか測りがたい妄執にも映ってきた。少なくともチラシに記された最期まで<人間>であり続けるために-といったノーマルに明快な“わかりやすい”意思によるものではないのは、確かなことのような気がしてならない。

 自分もまた同じくナチスの囚われ人だと言っていた医師から、解剖を命じられている少年の遺体を埋葬したければ、同じ歳格好の身代わりを用意するよう言われたサウルに対して、ゾンダーコマンドの班長が「死体のために生きている者を差し出すのか?」というような問い掛けをしていたように、また、ラビの探し出し方においても、囚人による反抗蜂起への足の引っ張り方からしても、少なくともサウルは、ガーディアン紙によるとチラシに記された“勇気と尊厳”の人物ではなかったように思う。むしろ、どんなに視野を狭くして身を守ろうとしつつも、圧倒的な暴力と過酷な境遇の下にあっては、魂が引き裂かれてしまうほかない人間の実存を描き出していたのだろうという気がした。

 さすれば、彼がこだわっていた“息子の死体”というのは、何を意味していたのだろう。そして、正しく「サウル」と彼の名前を呼んだ女囚は、どういう存在だったのだろう。本作に拠れば、ユダヤの同胞をガス室に送り込み死体の始末に従事していたゾンダーコマンドなるものが、一方的に命じられるものではなくて志願者を募ったうえで選抜されるものであったらしい点が、極めて重要だ。ラビを名乗ることでサウルに助けられた男が終始、同伴者としてサウルを助けていたことも印象深い。

 そして、サウルが最期に見知らぬはずの少年の姿を目に留めて微笑んだ後に、追撃隊による機銃掃射の激しい音のみが響いていたエンディングに項垂れないではいられなかった。あの少年もまた、サウルの息子ということなのだろう。すなわち、ホロコーストを体験した人類における次世代は、その刻み込まれた記憶を失うわけにはいかないのだという作り手の意志のようなものを感じた。

 ガス室を生き延びつつも死体となった少年も、サウルの手によって焼却は逃れて川を流れ落ちていくことができたのだし、サウルのかすかな微笑を目撃したはずの少年は、少なくともナチスの追撃隊の手で死体にされることはなかった。そのような僅かな拠り所に気休めを求めたくなるような何ともしんどい凄い映画だった。




参照テクスト:BS1スペシャル『アウシュビッツ 死者たちの告白』前後編




推薦テクスト:「TAOさんmixi」より
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推薦テクスト:「ケイケイの映画通信」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1950305994&owner_id=1095496
推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/hotondo_ke/17010901/
 
by ヤマ

'16.12. 7. あたご劇場



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