『シャトーブリアンからの手紙』(La Mer A L'aube)
監督 フォルカー・シュレンドルフ

 チラシの片隅に「実話に基づき、P.L.バスの資料およびノーベル賞作家ハインリヒ・ベルの小説、作家エルンスト・ユンガーの記録から着想を得て。」と記されていた“ナント市での仏人共産党員によるナチス将校暗殺に対するヒトラーによる報復”を描いた作品を観ながら、何とも言えない陰鬱な気分に見舞われた。

 誰もがこれでいいとは思っていない事態の進行が止まらないのは何故なのかといった問い掛けをすることさえ虚しくなるような為す術の無さに押し流されていく感じの持つリアリティが半端なかったからだろう。垣間覗かせる人々の良心がいずれも呟き程度でしかなくなる状況に立ち至れば、かような無慈悲も理不尽も棚上げになってしまうということだ。人間社会というのは実に恐ろしい。

 馴れというのでも、諦めというのでもなく、鈍感さというのもまた違うような気がした。遠い昔、精神看護を学び教えていた友人から教わった<脱感作>という言葉を想起した。二十年近く前に観たウェルカム・トゥ・サラエボ以来のような気がする。

 サラエボの状況について街なかで普通に生活している一般人が無差別に狙撃され、命を断たれるなどという非日常的なことが、格別に珍しくも何ともない日常になってしまっている、とんでもない空間と時間と映画日誌に記したことは、ある意味'41年当時のフランス以上だったのかもしれない。

 だが、『ウェルカム・トゥ・サラエボ』には顔の見える形で描かれてはいなかった“殺す側の姿”を印象深く描出していたところが、本作で脚本・監督を担ったフォルカー・シュレンドルフの面目躍如たるところだろう。ナチスに属する者として関わる人々、フランス傀儡政権にいる人々、現場で指揮を執る人々、直接的な執行に携わる人々、そのいずれにも決して身を置きたくないけれども、そう願うなら、そういった状況に立ち至る前に歯止めを掛けなければ、いざそのときに対処することは至難の業であることが突き刺さる。事そこに至れば、本作中でも明言されるように、記録を取って残すことくらいしかできないわけで、それすら当時は偉業というか普通にはできないことだったに違いないことが、駐仏ドイツ大使のような人物の存在によって浮き彫りにされていた気がする。

 かような事態になれば、殺す側よりは殺される側のほうに身を置くほうがまだましだという気にさせられる作品だった。




推薦テクスト:「TAOさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?owner_id=3700229&id=1935920836
 
by ヤマ

'16.11.16. 美術館ホール



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