『ハドソン川の奇跡』(Sully)
監督 クリント・イーストウッド

 まさしく原題が示しているように、本作は「ハドソン川の奇跡」と呼ばれたUSエアウェイズ1549便不時着水事故を描いたものではなく、彼の人物像だけに焦点を絞って描出し、その魅力と偉業を讃えた作品だったように思う。エンドロールで示されていたとおり、事故後も当時の乗客やクルーとの集いが続いているようだ。キャストクレジットにこれだけ“herself”“himself”が頻出した映画は初めて観たように思うから、皆から慕われる立派な人のようだが、本作で描かれたサリーは、それもそのはずと納得できる、冷静沈着で責任感にあふれる誇り高き人物だった。おまけに絶えずユーモアを湛え、鷹揚に構えているのだから見事なものだ。

 そんな彼の人となりを描くうえでは、事故後の顛末における彼の対応は描いても、国家運輸安全委員会(NTSB)がなぜ“墜落”にしたがり、チェズレイ・“サリー”・サレンバーガー機長(トム・ハンクス)の判断ミスにしたがったのかといった事情や背景などは、この奇跡に対して夾雑物にすぎないという作り手の構えだったのだろう。潔いまでに割愛していたために、今ひとつ釈然としないものが残った気もする。

 保険金を支払いたくないであろう保険会社が機長の判断ミスにしたがるのは容易に察しが付く。だが、なぜ国家運輸安全委員会がそうしたがったのか。公的機関がその存在感をアピールしたかったという観方もあるのかもしれないが、それで言えば、国民的ヒーローを敢えて引きずり下ろすことで受けそうな逆風からして見合わないと察して、普段なら素通りしないケースであってもやり過ごしかねないのであって、このケースで気張ることはないような気がする。

 保険会社から手が回っているとの設定なら確かに無理をするのかもしれないが、どうもそういう設定ではなかったから、サリーの抗弁に対し彼らも潔かったように思う。だから、釈然としなかったのだ。政府にしても、航空会社にしても、乗客乗組員全員の命が救われた顛末に対して、機長に責を負わせて得られるものがあるとは思えないなかで、いったい何が起こっていたのだろうと不思議な気がした。

 そもそも17回もシミュレーション飛行のテストをさせ、最短時間で最短空港への帰還のみでしか成功しないのであれば、事故発生当時に現場でその判断ができないのも当然だという証拠にはなっても、そうしなかったことで機長の責を問えるはずがないというのは自明のことなので、サレンバーガー機長から“人的要因の考慮”を求められるまでもなく、機長の判断ミスに持っていこうとはしないはずだ。

 もし委員会の事故検証への実際の向かい方が本作に描かれたようなものだったとしたら、そこには、何らかの力が加わっていたのではなかろうか。だが作り手は、国家運輸安全委員会を最終的な悪役にはしたくなかったから、政府機関の告発めいた部分を添えずに専らサリーの偉業を讃えることに徹したのだろう。それは政府関係機関だからという遠慮ではなくて、告発めいた社会派ドラマ的な色彩を帯びてくることでサリーを描くという主題がぼやけてくることを懸念したからではないかという気がする。

 その意味では、それはそれで成功していると思うのだが、そうしたことによって結果的に、彼らの事故検証への向かい方に釈然としないものが残ることになった気がする。けっして政府への遠慮というものではなく、あくまでサリーを描くことの邪魔になるということで割愛している感じの伝わってくるところがさすがの映画作りだと思った。




参照テクスト:フェイスブック談義編集再録


推薦テクスト:「ケイケイの映画通信」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1955928588&owner_id=1095496
推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/hotondo_ke/16101603/
by ヤマ

'16.10. 3. TOHOシネマズ3



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