『アダルト・エデュケーション』を読んで
村山由佳 著<幻冬舎>


 再婚した40代半ばの2009年頃に胸に入れたという刺青の文様と同じフェニックスを表紙カバーの装丁に織り込んだ2010年刊行の短編集を読んだ。村山由佳の作品を読むのは、一年前に読んだ『ダブル・ファンタジー』に続いて二作目だ。

 ちょうど先頃、シャーロット・ランプリング主演の映画さざなみ』についての談義を交わしているうちに発展した話題のなかで、風俗嬢も真っ青!主婦に蔓延する「謝礼交際」の荒稼ぎという記事から、バブル世代女性における性意識についてとりわけランキングや勝ち組負け組に過敏なバブル世代…においては、メイクもお洒落なファッションもモテ度も、どれもこれも“女性同士の中で高い位置につくための一要素”に過ぎないといった話になっていたのだが、その後、同じライターによる肉体関係なしの既婚者恋愛「セカンドパートナー」のリアルという記事においても“高学歴、SM、戯れ”がキーワードになっているのを読んで、世代観以上にライターの趣味が投影されている気がしないでもなくなっていたものの、別の女性ライターによる記事食事や映画は夫じゃなく男友達と? 妻のセカンド・パートナーを許せるかのなかで紹介されていた『モンスターウーマン 「性」に翻弄される女たち』の著者で女性の性や健康に詳しいライターとの大場真代によれば現時点でセカンド・パートナーを持つ人は、アラフォー、アラフィフ世代の女性に多いようですが、彼女たちは男女雇用機会均等法の影響を受けた、何でも欲しがる“欲張り世代”となっていて、この均等法世代とバブル世代というものが重なることを思い出し、本作の著者がまさにその世代になることに思い当った。

 田中亜紀子が満足できない女たち アラフォーは何を求めているのかPHP新書)において、アラフォーというのは40歳前後の女性たちを言うのではなく時代とともに歩み、マスで行動する最後の世代と呼ばれ(P15)大学生の頃は女子大生ブーム、…OLになればOLブームで、『Hanako』創刊とともに元祖Hanako族としてバブル気分を満喫。結婚して出産すれば、公園デビューにお受験ママ、そして自分探し。のちにスピリチュアルブームやロハスの立役者となる(P14)女性たちが40歳前後を迎えて命名された世代名称とのことだと記していたが、その世代の女性には独身・既婚、子どもあり・子どもなしにかかわらず、…独特のメンタリティ(P12)があって、男女雇用機会均等法施行のタイミングで社会に出た均等法第一世代…の1963年度生まれまでをアラフォーの上限とし、その後のバブル世代…を中心とするとしていた世代に、1964年生まれの著者は該当するわけだ。

 ともあれ、大場真代の語る“欲張り世代”として、良くも悪くも妥協せず、欲しいものを全力で取りにいこうとする感覚があるという点では、前掲記事による報告のなかにも見え隠れする“罪悪感の影”という点でも、本作の著者自ら十二の短編の中に生きる十二人の女たちは皆、程度の差こそあれ、自らの性や性愛に対して罪悪感を抱いている(P303 あとがき)と記していることとも符合して、興味深く思った。

 他方で本作ではなく、これらの記事に記された「謝礼交際」やら「セカンドパートナー」といった言葉に、僕は実に嫌な感じを受けた。不倫するなら不倫するでも、その覚悟を持って臨むなら別に構わないというか是非もないと思うので、男性器を女性器に挿入する行為さえしなければ不倫じゃないなどという、何だか姑息極まりない便法が昨今の政治の言葉みたいで気色悪かったのだ。個人の言葉が、どうしてこんなふうに血肉から離れた法曹用語みたいになってきてしまったのだろう。謝礼交際やらセカンドパートナーなどと名付けることで当事者として得心できるものが生まれるような気になる言語感覚というか、精神構造が不気味なのだが、なんとなく「アベ首相の不気味さってこれか!」という気付きが得られたような気がしていた。

 その点では、あとがきにもう、この際、いっさいのエクスキューズを抜きにして、とことん傲慢に言い放ってしまおう。肉体を伴わない恋愛なんて、花火の揚がらない夏祭りみたいだ!と。(P305)などと記している著者はなかなか潔く、いったいどうしてなのだろう。どうしてこの時代においてすら、女性の側から性愛を欲することはタブー視されてしまうのだろう。男性ばかりではない、むしろ同性のほうが強固に、<女が性について口にするなどはしたないことだ>と信じこんでいる。それがそもそもどこから植えつけられた考え方であるかを疑ってみることもなく。(P304)と零しつつも、そうかと思えば逆に、雑誌の表紙などにはこんな謳い文句が踊っていたりもする。「欲望に忠実になれば、人生はもっと愉しい!」見るたび、それも嘘だと思う。欲望に忠実になると、人生は間違いなくしんどい。そのしんどさに耐えられる心と、生じうる結果に対して落とし前をつける覚悟のある者だけが、自らのほんとうの望みに忠実になることを許されるのだ。(P304)としている気概に、1963年生まれで著者と1歳違いの田中亜紀子が前掲著作に<アラフォー>の定義をここでもう一度決めるとしたら、年齢というより、アイデンティティを何よりも大事にし、その確立のためにエネルギーを注ぎ、自分の可能性を求め常に選択肢を増やしていく、そんなメンタリティにあるのではないだろうか。(P238)と締め括っていたことが、ある種、爽快であったのと同じような感想を抱いた。

 同性愛めいた記憶のなかでミッション系のいわゆるお嬢様学校の同窓生オカザキのオイルマッサージに身を委ねる美羽を描いた『あと少しの忍耐 PATIENCE から始まり、自分の患者だったAV男優のサイドビジネスである性感マッサージのなかでアロマオイルにまみれて自身の性的ファンタジーの3Pを満たすオーダーをし“ぜんぶ新しい私”(P301)になって海外研修に飛び立つ心療内科医の冴子を描いた『誰も知らない私 REBORN で終える十二篇は、最初の短編からここを革紐でこう縛って……(P17)というフレーズがでてくるうえに、最後の短編にも人にはたいてい、その人だけの性的ファンタジーってものがあるじゃないですか。女性によくあるのは、一度でいいから縛られてみたいとか、言葉でいじめられてみたいとかね(P293)とあるところからして、前掲記事のキーワードと符合してくるような記号に彩られていた。

 二篇目の『それでも前へ進め ADVANCE は、『さざなみ』談義のなかで僕がバブル世代に対するいちばんの違和感は、あの強いランキング志向と勝ち負け感覚なんですよと発言していたことに呼応するかのように、ひとより高みに立とうとする時、方法は二つある。自分を引き上げるか――相手を引きずりおろすかだ。引きずりおろすほうが簡単なのはわかりきっているけれど、それでも私は、できる限り前者でありたいと思うし、他人の足を引っぱったり陰口をたたいたりするような醜い真似だけはしたくない(P33)との書き出しで始まる陽子の物語だった。五歳下の部下に飲み会のあと口説かれた何年ぶりかのセックスで火を点けられ会社で過ごすすべての時間が、淫靡でストイックなプレイだった。昼間の上下関係が、夜になると逆転する、そのいびつさが倒錯的でたまらなかった(P44)ものが、最初の頃は逢うたび時を惜しんで抱き合っていたのが、半年ほどもたつとめっきり頻度が減り(P44)していく。そして初めてわかったことがある。言葉を介さない軀のやりとりが、男と女の間の潤滑油としてどれほど役立っていたかということだ。 他の誰にも許さない特別なことを、特別な相手にだけ許す。その行為を通して、相手そのものを許す。セックスには、そういう効用や意味がある(P46)と思うようになるなかで気づいた別れの気配が現実となり、若さしか取柄のないように見える入社二年目の女性部下のほうに乗り換えられ、敗北感に見舞われていた。

 三篇目は、互いの部屋を行き来し合う恋人同士として付き合っている関係のほかに、自分の倍近く生きているもうじき五十歳になる男と一ヶ月に多くて三度の割合で…西麻布にある…SM専門のホテルで逢瀬を重ね、M同士の互いに痒いところを搔き合うようにして…歯が溶けそうなほど甘い、嗜虐と加虐。得も言われぬ快感の螺旋二人とも気の済むまで昇りつめてくたくたになった末に、ごっこ遊びの役を離れてしまうと、魔法はたちまち解けてしまうのだった(P63)という関係を保ち、「今日もいっぱい遊んだねえ」「ほんとにね。なんか、喉が痛いよ。なんでだか知らないけど」「僕は知ってるけどね」「うるさいなあ」…さすがに数時間も喘ぎ続けると声も嗄れる(P64)などと言っているカナを描いた『あなたのための秘密 SECRET で、SMのみならず、ごっこ遊びという“戯れ”までもがキーワードとして前掲記事と符合していた。
 カナはエロティックなセックスなんてものは愛人との間にだけ存在するもので、恋人同士の間では構築不可能なのかもしれないとも思う。 篤志は、あたしが心の奥底で何を望んでいるか知らない。あたしの側も、知られたら軽蔑されるんじゃないかと思うと怖くて、彼の前で乱れることができない。今でさえ篤志からは感じやすすぎるといわれていささかもてあまされているくらいだ。本当の痴態なんか見せられるわけがない。 一人きりの夜、あたしは何度もくり返し夢想した。篤志に自分の性癖を吐露して、思う存分、言葉でいじめてもらうところを。目隠しをしてもらったり、後ろ手に縛ってもらったり、軽く首をしめてもらったり、恥ずかしい道具を無理やり使われたり、思い浮かべるだけで濡れて、昂ぶって、達してしまいそうになる。 けれど、いざ逢うとどうしても口に出せない。…あたしの欲しいものは永遠に手に入らない。あたしが欲しい男は篤志だけなのに、彼のしてくれるセックスではたぶん一生かかっても達することができない。 だからあたしは、かわりに藤木さんと寝る。からからに渇いた軀と心をどうしようもなくなって、つい自分から連絡してしまう(P72~P73)わけだが、印象深いのは小編タイトルにも直結するとんでもないことを言うようだけれど、藤木さんの存在があるからこそ、あたしは篤志をまっすぐに愛せているのだと思う。彼を裏切っているという罪悪感と、秘密を抱えている後ろめたさがなかったら、あたしは自分の側の不足や不満をすべて彼にぶつけてしまって、とうてい優しくなんかできないだろう。あるいはとっくに別れてしまっていたかもしれない(P73)との弁だった。「まっすぐに」だとか「とうてい」などという如何にも女性的な言葉の強さが気恥ずかしいが、こういう面は確かにあるような気がする。だが、この便法はかつて男たちが使っていたものであることを知ればこそ、今や女性の側が使うようになっていることに隔世の感を覚えた。

 そのあとは、三歳下の弟への欲情を弟の恋人との同性愛行為によって代償しているミズキを描いた『最後の一線 MORAL 。二歳年下の中学一年生の従弟のオナニーを目撃して強烈な平手打ちを食わせた十年後に、酔っ払って軽いいびきをかき始めた従弟の傍らで始めたオナニーを見咎められ手続きがやたらと面倒なM(P111)を自認する己が願望の満たされる展開にこの究極の快楽を手に入れられるのは、もしかするとたった一回こっきりかもしれない(P125)と思う志保を描いた『これでおあいこ FORGIVENESS 。ペットの犬との性戯に耽る有紗を描いた『言葉はいらない CONVERSATION
 表紙カバーのフェニックスと同じ図柄のタトゥーを胸に彫り込み演じることのイロハばかりか、映画の魅力、物の見方や考え方、書物の選び方と読み解き方、そしてもちろん男女の悦びの奥深さに至るまで、人生に必要なすべてを一から教えてくれた(P158)ふたまわりも上の男との十二年に終止符を打とうとする女優の私を描き、『ダブル・ファンタジー』を想い起させつつ三十五歳という十歳のサバを読んでいる感じが妙に可笑しかった『不死鳥の羽ばたき INDEPENDENCE
 クリスマスイヴに付き合っている男に二十万円でAV女優にさせられて従いさんざん指で弄ばれて、へんなおもちゃなんかも使われて、シーツはびしょびしょになるし、途中で何度か体だけが勝手にいってしまって、あたしはうわごとみたいに何度も何度もエイジに謝った。…でも、いくら達しても、好きな人としてる時みたいに気持ちまでいくことは一度もなかった。 男の人のあれは、大きければいいわけじゃないんだと初めて知った。あたし自身の深さより相手のそれのほうが長すぎると、打ちつけられるたびに奥の壁が砕けそうになる。最後に後ろからがんがん闇雲に突かれた時は、ただもう苦しくてつらくて、あたしはエイジもカメラも忘れて泣き叫んだ。今こうしていても、痛くてあそこに力が入らないくらい。 ……ずきずきする。あそこより、頭より、気持ちが(P192)という奈緒に差しだされたギフトを描いた『聖夜の指先 GIFT と続く。

 九篇目は柾之が抱いてくれると、私はたちまち安定する。 まだ若さの残る三十三歳。十以上も年下の彼から触れてもらえるだけで、自分が何かとても「いいもの」になった気がする。まだ、女だ。まだ、終わってやしない。そんなふうに思えて、気持ちがふっくらと潤う。 でもそのぶん、たまたま会えない日が何日か続くと、情けなく萎れて何をする気も起らなくなってしまう。まるで鉢植えの花木みたいだ。柾之のあそこから直接に注がれる濃い液体だけを待ちわびて、その時だけかろうじて花を咲かせる植物。鉢の根もとに逆さに挿す栄養剤のアンプルみたいに、私は柾之のあれをずっと挿していたくてたまらない。大きくて硬くて、私の中をいっぱいに満たしてくれるあれを、彼がずうっとあそこに挿したままでいてくれたなら、このままきれいな花を咲かせ続けて永遠に枯れずに済む気がするのに(P203)というSM遊戯などよりも遥かに強烈な書き出しで始まる『哀しい生きもの LIFE だった。
 最初の肌合わせでいったふりをしたことを見抜かれて騙されたと思って、あと二回だけ俺に挽回のチャンスをくれないかな…二回目はもっとうまくやれると思うけど、もし三回やっても駄目だったら潔く撤退するよ…ほんとに気持ちよくなるためにはまず、相手に対する信頼感がなくちゃいけない。で、お互いの間に気安さが生まれるのはだいたい三回目以降だから(P211~P212)との官能小説家の申し出に応じた三か月の間にすっかり嵌り込んだ四十路半ばの咲子が、私との間で試したことを、柾之が一つひとつ克明に再現して小説にしてゆく。 そうしてあらかたすべてを書ききってしまうと、彼は私を実験台に、新しいあれこれを試し始めた。…夜中にわざわざ公園まで行って、暗がりでセックスをする。…休みの日に、一緒に買い物に出かける。私の足の奥には小さいおもちゃが挿入されていて、柾之が気まぐれにリモコンのスイッチを入れる。…寒空のもと、下着をつけずに出かけ、満員の電車に乗り込んだこともある。…昼の日中に、カーテンすら引かない部屋で、彼を前に自慰をしてみせる…どこかから呼ばれてやってきたプロの男に縛りあげられ、ぎりぎりの責め苦を味わわされる…あるいはまた、レスビアンの女性にあそこを丹念に舐めしゃぶられ、何度も何度も昇天させられることにさえ。 慣れる、というのとは違う。どれもこれも、柾之にじっと見られていると思うと死にそうに恥ずかしくて耐えがたいには違いないのに、かといってそれほど特殊なこととは思わなくなっていくのだ。いけない、麻痺してしまってはいけないと思う気持ちと、男女の間では互いが承知してさえいれば何だってありなのではないかという気持ちがせめぎ合い、少しずつ後者のほうがまさってゆく。 そうしてどんどん堕ちていく私を、柾之は淡々と観察してはまた書くのだった(P220~P221)という過程を経て、付き合って三ヶ月――。どれだけ過激なセックスを試し続けたところで、この時が巡ってくるのは避けられないのだろうか。もはや柾之にとって私は、新たな刺激を得るには物足りない女でしかないのかもしれない(P222)などと思いつつ、柾之を担当する若い入社一、二年くらいの女性編集者の存在に動揺し始め、それすら柾之の仕掛けた趣向のような気がしてくるなかでこの人との仲はいつまでもつんだろうとか、あと何回抱いてもらえるだろうとかと考えながらどうせ哀しくなるだけとわかっていても、だから私たちはまた交わろうとする物語になっていた。

 次の『ひとりの時間 LONELINESS は、一人の女に対する欲望には、どうしたって限界があるっしょ。付き合っていけばいくほど愛情は増すかもしれないけど、そのぶん新鮮味は失われていくわけでさ。十回やるよりは百回のほうが相手を深く知ることができるだろうけど、百回と千回はそう変わらない気がする…今のうちに言っておくけど、俺、風俗とか行くのはやめないと思う(P235~P237)などと嘯く俊晴にうながされ、いちばん恥ずかしい場所をそっと夜の空気にさらす。その瞬間、私の全身の輪郭は、ホックニーの水彩画のように滲んで溶けた。 彼の指や舌にかき鳴らされるたび、彼のためだけに歌う楽器になる。私の唇からこぼれ続ける反語のほとんどを無視しながら、彼は自分の好きなように動いた。後ろから壊され、前から揺さぶられて、私は嵐の海の小舟みたいに波間を上下し、投げだされて溺れかけては必死で彼にしがみついた(P233)弘美が、一緒に暮らし始めて一年経って八キロ太ったことに対して太ってる女の人って駄目なんだよね(P242)と求められなくなったことに打ちひしがれつつ未練に苦しむ物語だが、「潮時が来るのが男女の人間関係なのだ」との確信が作者のなかにあることが窺えるように感じられた。

 この『ひとりの時間』の俊晴と対を為すように菜々子には誤解されちゃうかもしれないけど、あたしは、一人じゃ満足できない体質なの…穏やかさを選べば、激しさが欲しくなる。激しいのに満たされれば、穏やかなのが恋しくなる。もちろん、恋人や夫が全部の面を満たしてくれるなら別だけど、そんな男なんているわけないもの…あのひとのことをずっと大事にしながら二人で幸せに暮らしていくためにも、あたしは誰か別の男と、内緒でそっちの問題を解決するしかないのよ(P262~P264)と述べる八つしか違わないフリーのスタイリストである叔母の“玲ちゃん”が登場し、前掲記事の「セカンドパートナー」の効用そのものを述べるとともにべつにさ、正当化してるつもりはないんだよ…悪いのはあたし。そのことはよくわかってる。自分の軀がこんなふうじゃなかったらどんなによかっただろうと思って、情けなくなることもしょっちゅうだしね。だけど、あたしはどうしてもこういうふうにしか生きられないから(P264~P265)とも語っていた『罪の効用 MODESTYでは、叔母の弁にでも――口では「情けなくなる」なんて言いながら、玲ちゃんはそういう自分をまるきり嫌悪しているわけでもなさそうだった。平凡きわまりない私なんかからすると、彼女の言動のなかに一種の選民意識みたいなものを感じることもあった菜々子が、会社で受けた憂さの気晴らしに、つい最近同棲相手と別れたばかりのなかで叔母の留守宅を訪ねて叔母の夫を挑発した翌朝、手をふり、ドアを開けて外に出る。歩きだすと、脚の奥にまだ何かはさまっているみたいで、でもその感覚が私を内側から強く支えてくれている気がした。…ゆうべの時点ではまだ不安だったのに、今は自信があった。 玲ちゃんが帰ってきても、私はきっと、以前と変わらずにふるまえる。後ろめたさがまったくないといえば嘘になるけれど、罪悪感すらも甘美だった。もしかして、血筋的に隠し事に向いているのかもしれない(P276)と思う物語だ。
 性の不一致、と玲ちゃんは言った。 でも、パズルのピースが必ずどこかに嵌るように、清志さんのそれは、形も大きさも私の凹んだところにぴったりだった。あんまりきつく嵌りすぎて、簡単にははずれないくらいだった。「何だよこれ……ぎゅうぎゅう締めつけてくる」そう言う彼に、私も大きく喘いで応えた。 まさかこれが、ノーマルでおとなしいセックスだとでも言うのだろうか。 そうじゃない。このひとは、玲ちゃんにはしないことを私にだけしてくれているのだ。そう思ったら、軀じゅうの血が音をたてて満ち引きするほど深く感じた。あまりにも感じすぎて、気がつくと目尻から涙がこぼれていた。 結局、夜が明けるまで一睡もしなかった(P275)との記述に、ポテンシャルにおける個体差や相性といったものではなく設定条件こそが鍵を握っている性愛というものの刹那性に対する作者の確信が窺えるように思った。

 終篇の『誰も知らない私』において男性にはいわゆる性感マッサージの店がいくらもあるのに、女性向けにはほとんどない。安全で真面目な店となると、まず皆無と言っていい。女性にだって健全な性欲はあるし、夫や恋人からどうしても得られないものを秘密で満たせる場所があっていいはずだ……(P292)との真崎遼一の弁を記している短編集には、ただの一人も有閑マダムというか主婦は登場しないが、そのメンタリティーにおいては、冒頭に引用した“欲張り世代”として、『さざなみ』談義で奇しくも指摘のあった“選民意識”との言葉も登場する形で、まさしく世代意識を表している作品集になっている気がした。

 その意味では、前掲記事のキーワードのひとつであるSM行為が頻出することにも、ある種の世代意識が表われているような気がしてならない。僕の意識のなかでは、知のパラダイムにおいて身体性に対する意識が強く働くようになってきたことが一般化しだして“身体性”という言葉が時代のキーワードのようになっていたのが、バブル期の少し前のあたりからだという時代感覚がある。ボンデージ』['91]の映画日誌ポルノ映画の衰退と一般映画のポルノ化のなかで、昨今エロティックな作品がもてはやされていて、なかでもSM・覗き・フェティシズムなど、さまざまな倒錯的な性の官能の煌きというのが今風の流行のようであると記したのは、'93年のことだ。

 SMという概念のなかに潜んでいる人間の心理や関係性は異性間に限らず、また性愛場面に限らず、人間的領域の各所で垣間見られるからこそ、学歴度合いとは別に、観念性や知性に秀でた人たちが関心を寄せ、惹かれるのは、むしろ当然のことだと思うのだが、その理由がまさに、あの領域ほどに観念性及び精神性と身体性とがダイレクトに繋がっている人の営みというものはないからのような気がする。

 そして、そこに向かっては、求道的に臨んでいる輩もいれば表層的に戯れている輩もいるわけで、SMだからどうということでもないのだが、奇しくもバブル期あたりから、アングラ文化だったSMのファッション化が進み、それこそ『さざなみ』談義でも言及した「サービスのS、マンゾクのM」などという言葉が出てくるようになったと感じている。

 僕が子供の時分の知の本流は明々白々に“知性”だったように思うが、青年期の頃には既に少々馬鹿にされる風潮があって“感性”なるものがもてはやされ始め、更には感性よりももっと実体的な“身体性”がもてはやされるようになったように感じている。そのことと符合するようにして、ヘアヌード写真集が流行し書店に普通に平積みされるようになった頃には、そういった写真集を書店で開くことよりも、哲学書に手を伸ばしたりすることのほうに時代遅れのかっこ悪さを露呈するような恥ずかしさを覚えた記憶がある。そのような“身体性”の流行の次にやってきたのは、反動のように“精神性”に向かうメンタルブームで、社会心理的なところでは今や“反知性主義”なるものがメインストリームとなりつつあるようだ。本書を読むと、そういった時代の潮流というものが恋愛事情に遺してきたものが如実に反映されているように感じられ、なかなか興味深かった。
by ヤマ

'16. 6.13. 幻冬舎



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