『子どもは風をえがく』
監督 筒井勝彦


 五年前の風のなかで むしのいのち くさのいのち もののいのち['10]に続いて中瀬幼稚園にカメラを持ち込み、その四季を捉えた作品を観たが、とにかく色合いの美しさに驚いた。とりわけ僕の好きな緑色の艶やかさが嬉しかった。

 それにしても、この自然豊かな幼稚園が東京23区内にあることにたまげる。そして、田舎の高知に住む僕でも観たことのない虫が生息し、つい2週間ほど前に6人目の孫持ちになった僕さえも経験していない「縄ない」を現代の幼稚園で体験させている様子が目を惹いた。

 だが、最も感心したのは、2月の節分行事で鬼に扮装した大人たちが本気で園児たちを怖がらせていることだった。近年目につく常軌を逸した犯罪行動の頻発に対して僕はかねがね、過保護と過干渉が日常化している現代の育児・教育において、誤った“怖いもの知らず”を生み出していることが影響しているように感じていたので、怖いものの存在を日常性から離れた形で体感させることの重要さを認識している幼児教育に大いに共鳴し、好感を覚えた。

 日常的に接する生身の存在に脅えてしまう状況を作り出すことは教育的に好ましくない一方で、畏れの感覚を育むことが疎かになると自己規律が育ちにくくなる。古来、神仏や鬼はそのために生み出された人間の知恵のようなものだという面があると思っているので、それらを「かわい~」などというキャラに仕立て上げるのは商業主義による冒涜というよりも“知恵の毀損”のようなものだと感じていたから、大いに溜飲を下げたのだが、これを観て愚かにも「泣くほど怖がらせるなんてひどい」などと思う観客もきっといるに違いない。

 途中で流れた三波春夫の♪世界の国からこんにちは♪には思わず吹き出したが、確かに「一九七〇年のこんにちは」から時間が止まっている奇跡のトポスとも言えるような中瀬幼稚園には、今や失われたように感じられる幼時体験の全てが生き残っているように感じられた。

 なかでも痛快なのは、現代日本における除菌滅菌の行き過ぎたクリーン選好を嘲笑するかのように、とことん泥んこ土いじり草もつれの昔懐かしい汚れ遊びを年中通して行っていることだった。子供たちは草も噛むし、屋外に張った氷も齧る。常備薬的に薬も備えていなかった幼い頃に、僕も擦り傷に草の汁を擦り込んだりしていたことがあるのを思い出させてくれる園児たちの姿に笑みが零れて仕方がなかった。商業主義が煽り立てた過剰な清潔志向のようなものを常日頃いまいましく感じているので、実に愉快だった。人間は、こうでなければいけないとしみじみ思った。

 でも、こういう幼稚園に子供を通わせている親というのは、とても余裕のある人たちなのだろうなと思わずにはいられないところもあって、少々複雑な気持ちにもさせられた。我が子の描いた児童画以前の幼児画について、これだけ深く詳しく聴き取りをすることのできる余裕を得ている母親というのは、そうそういるものではなかろうと思われるようなお母さん方だった。井口佳子園長も語っていたように、中瀬幼稚園の誇るべき庭を維持するうえで、保護者の果たしている役割は非常に大きいようだったし、ごく限られた層しか入園させることが出来ないような気がしてならなかった。

 都会の一隅で溢れるばかりの自然に包まれ、四季の伝統行事も楽しみ、栽培や収穫も行いつつ子供たちが生き生きと遊んでいる姿の微笑ましさに、世の中には本当に恵まれている子供たちがいるのだなと改めて思った。そういうことまでも含めて伝えてくる実に刺激的な作品だったような気がする。

 前に『風のなかで』を観たときにドキュメンタリー映画として教育問題を問い掛ける視座に立つならば、卒園前の一か月の記録を提示するだけでは物足らず、入園前の親たちのレディネス形成から捉えるべきだろうし、何よりも、おそらくは最初は人と遊ぶことよりも物と遊ぶことのほうに馴染んでいたはずの入園児たちが幼稚園での日々を重ねるなかで次第に“命の力を育むプロセス”を捉えていなければならないとは思う。そして、そのなかには当然にして起こっているであろう子供が怪我をする場面や、そのことへの園と親の対処の仕方も含まれてなければならないと思う。と記していたことについては、「入園前の親たちのレディネス形成から捉えるべき」という部分を除いて、その後のこどもこそミライ―まだ見ぬ保育の世界―['14]と本作の二つできっちりと提示してもらったように感じた。一年がかりで“命の力を育むプロセス”を捉え、保護者たちについての触発も促してくれる作品になっていたことに満足感を覚えた。
by ヤマ

'15. 9. 7. DVD観賞



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