『百日紅~Miss HOKUSAI~』
監督 原恵一


 「そーか、“へた善(声:高良健吾)”ってのは、あの『枕文庫』の英泉のことだったのか」と納得しつつエンドロールを眺めていたら、太田記念美術館の名と共に応為の名がクレジットされた。二十代か三十代の時分に、二度ほど訪ねたことがあるが、彼女の作品のことは記憶になかった。

 お栄と言えば、やはり新藤監督の『北斎漫画』で田中裕子の演じていた人物像の印象が僕のなかでは強いけれども、本作で描かれていた人物像は、声をあてた杏のイメージにとても合っていて“さっぱりきっぱりした風変わり”がよく出ていた気がする。

 北斎の松重豊もなかなかよく、五年前にカラフルを観たとき「原作小説は未読ながら、アニメーションにすることで生々しさが削がれた分、抽象度が上がって原作の持ち味が生きてきているのではないかという気がした。さればこそ、細密画の域を超えたスーパーリアリズムとも言うべき手法による事物や風景を持ち込んだことには疑問が残るように思う」と綴った点からは、アニメーションならではの画面展開が活かされ、原作漫画は未見ながらも、その持ち味が活かされていたのではなかろうか。

 とりわけ、昼を弁当屋から買ってくる今風の風俗と“もののけ”を信じている今は無き風俗を、今や失われたように思われる、時間や人の心情の“ゆったりとした大らかな流れ”を醸し出すなかで描出することに成功した佳作だと思ったが、何かが妙に足りない気がしてならなかった。「なんだろう? なんか勿体ない感じだ」との思いが拭えなかったが、理由はよくわからない。

 もしかすると、盲目の妹お猶(声:清水詩音)を置いたことで本作が、河童のクゥと夏休みに描かれていたような“異形のものとの親和性のもたらす活力ないし再生”に重きが置かれず、“風変わりと異形”よりも“可視と気”のようなものに物語の基軸の比重が傾いたことが、僕の求めるものとのずれを起こしたのかもしれない。
by ヤマ

'15. 5.29. TOHOシネマズ6



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