『カラフル』
監督 原恵一

 原作小説は未読ながら、アニメーションにすることで生々しさが削がれた分、抽象度が上がって原作の持ち味が生きてきているのではないかという気がした。さればこそ、細密画の域を超えたスーパーリアリズムとも言うべき手法による事物や風景を持ち込んだことには疑問が残るように思う。作中で提起されたイメージそのものとしては直接的にアニメーションでないと描けないものが何もなかったことと相俟って、“実写さながらの絵が頻繁に現れるなかで二次元の登場人物による物語が綴られること”によって生じたと思しき違和感が、実写版で見せてもらいたい気持ちを誘発したように感じられるからだ。

 とはいえ、実写版だと、父親(声:高橋克実)に誘われて付き合った渓流釣りで目にした紅葉の大自然から真(声:冨澤風斗)が受けたインパクトを映し出すのは、かなり難しいのかもしれない。

 終盤の真の高校進学にまつわる家族会議の食卓場面が、物語的にはハイライトなのだろう。命の持つ力のようなものを感じさせてくれたように思う。蘇った真の命が家族それぞれをどう変えたのかということが具体の事象として示されるわけだが、それ以前の小林家の人々がみな、家族というものに対して“投げやり感覚”に囚われていたことが窺えた。真が自死を試みた直接的な引金は、自分が想いを寄せる後輩ひろか(声:南明奈)に加え、母親(声:麻生久美子)までもが秘かにラブホに出入りする場面を一度に目撃したことかもしれないけれども、根底にあったのは、彼らを日常的に蝕んでいた孤独感と投げやり感覚が醸成していたと思われる厭世観だったような気がする。

 のちに、唱子(声:宮崎あおい)が評して見せたように、美術に才能を有していた真は、具象の向こうにある抽象への感受性が強く、内向的に感情を折り込み堆積させる質だったようだから、ショッキングな目撃が外してしまった引金によって弾かれたものも高い強度で現われてきたのだろう。
 多感な十代の息子に母親が不倫を知られてしまうことの重さというものが、強く押し出されて描かれていたところには、作り手の思いがよく表れていたように思う。息子が自殺を試みたことによる自責と改悛に努めていた母親の人物造形がなかなか良かったが、麻生久美子が演じることができたのは、まさにアニメーションの効用だったと言えるのかもしれない。

 自殺からの蘇生という一大事件を契機に家族の心と行動が変わり、自身が過去の記憶を喪失することで囚われを脱すれば、早乙女(声:入江甚儀)のような得がたい友を得、自分に視線を注いでくれていた唱子との間にも関わりが生まれ、都立高校進学という“生きるうえでの具体の目標”も得られたように、人も人生も変わり得るし、そんな大きな変化を生じさせるだけの力を持っているのが“人の命”ではあるわけだ。人の命の掛け替えのなさといった観念的な言葉ではなく、関係性や感情の具体的な動きによって、“人の命の持つ力”として描き出しているところが立派な作品だったように思う。

 だが、それこそ「いっぺん死んで来い」ではないけれども、それらは命を掛けないと生み出し得ないものだと言ってることにもなる面もあり、命の掛った一大事件が起こらないと、人も人生も変わることなどないのだということになれば、その至難のほどは絶望的に深いということになり、少々複雑な心境に追い遣られるようなところもあった。

 十代を生き延びるということは、そんなにも難しいことなんだろうか、などと思うのは、僕が自殺ということを一度も考えたことがないからなのだろうが、そのせいか僕には絵に限らず、真のように人の心を打つ表現をものすることはできないという気がする。何事もいいとこ取りはできないとしたものだ。




推薦テクスト:「シューテツさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1575231543&owner_id=425206
by ヤマ

'10. 9. 8. TOHOシネマズ5



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