『ストックホルムでワルツを』(Monica Z)
監督 ペール・フライ


 いい邦題だ。画面にクレジットされた何の情緒も挟まない「Monica Z」もかっこいいけれど、観終ってみると、邦題の良さが沁みてくる。そんな作品だった。

 限りある一度しかない人生で何を選び求め生きるかについては、自らの意思が尊重されなければならないことだと思うけれども、人は自分一人で生きているものでないからこそ、事は単純じゃない。

 前々日に観た『おやすみなさいを言いたくて』(エーリク・ポッペ監督)の戦場カメラマンのレベッカ(ジュリエット・ビノシュ)同様に、母親としての自分への葛藤を抱えつつ、凡人には真似のできない人生を選んだ女性のストレスフルでジョイフルな実に天晴れな生き様に感銘を受けた。

 僕自身には、レベッカやモニカが抱えた“自分でも抑えようのない衝動や強い想い”に駆られた体験がなく、モニカ(エッダ・マグナソン)が求めた“てっぺんから眺める光景”よりも、彼女の歌う『歩いて帰ろう(Walkin' My Baby Back Home)』のように緩やかな、大人の見る繪本 生れてはみたけれど』の映画日誌に綴った、ワーク・ライフ・バランスやクオリティ・オブ・ライフといったものを志向する人生を選んできたから、モニカの父親(シェル・ベリィクヴィスト)の側にいるわけだが、彼のように自分の価値観を子供たちに押し付ける真似はしないよう心掛けたつもりはあるし、“てっぺんから眺める光景”を求めて苦闘している人たちを冷ややかに眺めるつもりもない。

 それでも、モニカの危ういまでの激しい生き方に共感は覚えられず、ひたすら眩しく眺めていた。また、彼女のようなタイプの女性と身近に関わったことがないから、言葉として“ドキドキしない人”だとか“興醒めな人”だとかの言葉を浴びたことはないけれども、タイプ的には、ベース弾きのストゥーレ(スベリル・グドナソン)や映画監督のヴィルゴットのような庇護者的な側面で見られることが多い気がしている。だからかもしれないが、エラ・フィッツジェラルドとストゥーレの啓示によってオリジナリティを拓かれ、ヴィルゴットとベッペ・ウォルゲルスに居場所を保証されて開花したようなモニカが、紆余曲折の果てに、共に人生を歩む伴侶に旧知の“ドキドキしない人”を選ぶに至ったことにほくそ笑むとともに少々複雑な想いを抱いたりした。

 とても素敵だったのは、モニカがカフェでベッペ・ウォルゲルスの詩「イー・ニューヨーク」を「テイク・ファイヴ」に乗せて歌う場面だ。ハイライトシーンとも言うべき、憧れのビル・エヴァンスとの共演の場面以上に魅せられた。モニカを演じたエッダ・マグナソンの好演が印象深かったが、帰宅後、YouTubeで訪ねた実物のモニカの美人歌手ぶりにも驚いた。

 それにしても、十代時分の鮮烈な記憶に残る未見映画『私は好奇心の強い女』['67]のヴィルゴット・シェーマン監督がこういう形で登場するとは思わなかった。ヴィルゴットの掛けた「ワルキューレの騎行」にのせて二人で服を脱ぎ合い全裸で交わった出会いの日のエピソードは、事実に即したものだったのかイメージ的なものなのか、思わず吹き出しながら思った。『私は好奇心の強い女』は、今世紀に入ってからのリバイバル公開時にも観る機会が得られずに観逃しているが、本作を観て、改めてかの伝説の作品を観てみたいものだと思った。
by ヤマ

'15. 5.29. あたご劇場



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