『ソロモンの偽証 前篇:事件 後篇:裁判
監督 成島出


 近頃、記憶力の衰えが目立つので、前後篇を一ヶ月も空けて観るのは心許なく、なるだけ近づけて観ようと思っていたら、奇しくも併せて観られる好機を得た。前篇で14歳のときの事件の14年後と言っていたように思う涼子(尾野真千子)が、後篇では15歳のときの校内裁判の23年後と言っていたので、尾野真千子なら、28歳のほうが38歳よりも収まりがいいような気がしたが、宮部みゆきの原作小説ではどうなっていたのだろう。

 涼子の父親の藤野剛(佐々木蔵之介)が校内裁判を終えた中学三年生たちを労って声を掛けた一生に一度あるかないかの大仕事という言葉に、数々の刑事事件を経験してきている現職刑事の弁としての重みが備わっていて、とても印象深かった。現実の裁判では果されることが極めて稀だと思われる、本来“法廷が叶えるべき裁きの意味”というものが問い掛けられているように感じられるところに、作り手の志が窺えた。

 中学三年生の検事、藤野涼子(藤野涼子)が言っていたように、第一義としては罪は、いつか(購い)乗り越えるべきものとして犯した者が負うものであり、裁きとは、そのために避け難い必要悪でしかないということだ。涼子の弁をこのように受け取ることは、本作の台詞にもあった心の声に蓋を(して勝ち負けや損得に執心)すると、見たいものしか見えなくなり、聞きたい声しか聞こえなくなるということが、最高権力を有する政権からして常態化している現代日本の状況下にあって何事につけ、ひたすら犯人探しと厳罰化に向かっているなかでは、非現実的な空論だなどと一蹴されそうだが、僕には非常に大事なことのように感じられた。中学生による校内裁判といった突拍子のなさのなかでないとリアリティが生じないほど、現実の裁判における関心が罪そのものよりも、犯人と罰のほうに向かっていて本来の意味と役割を見失っていることが痛烈に迫ってきた。いつか乗り越えるべきものとして今後の購いに向けて負わせるための裁きではなく、裁くことでの決着を図るものになってきていることに気づかされたように思う。そして、中学生による校内裁判での討議を観ながら、法廷よりもさらに顕著な機能不全に陥って久しい国会のことについても思いを馳せないではいられなかった。

 大人たちが現実社会のなかで既に損なっているものの本来の意味を現出させ得たからこそ「一生に一度あるかないかの大仕事」という言葉となったのだろう。遺族、被疑者、関係者の全てが二人の死者に想いを寄せ、死に留まらない様々な罪にまつわる被害者、加害者、関係者の誰しもが「全ての被害者は加害者であり、全ての加害者は被害者でもある」ことを体感し、生きるということそのものに対する敬虔さに触れる時間を作り出していたように思う。

 不良の大出俊次(清水尋也)の度を過ぎた暴力や三宅樹理(石井杏奈)の声なき必死の叫びとしての偽証告発が、それぞれ自身の抱えた苦痛の、我が身を脅かさない者に対する攻撃転化であることは、直接的に描かれていたけれども、新米教師の森内(黒木華)の心を病ませ、涼子や弁護人を務めた神原和彦(板垣瑞生)の心を死に向かわせるほどに苛んでいた柏木卓也(望月歩)の鋭利な言葉が、ある意味、大出たち以上に、最もタチの悪いものだというふうに感じていた僕からすれば、柏木や森内恵美子の隣人(市川実和子)の負わされていた心の闇というものが、原作ではどのように描かれていたのか、大いに気になった。映画化作品では潔いほど削ぎ落としていたことが効果的に作用していたように思うが、原作ではきっと言及しているに違いない。





推薦テクスト:「つぶ。さんmixi」より
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推薦テクスト:「映画通信」より
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by ヤマ

'15. 4.16. TOHOシネマズ3&7



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