『エクソダス:神と王』(Exodus::Gods And Kings)
監督 リドリー・スコット


 さすがリドリー・スコットだ。圧倒的なスケール感とダイナミックな映像に目を奪われた。

 セシル・B・デミルの『十戒』['56]をスクリーンで観たのは、22歳のときで、もう35年も前のことになるが、スペクタクルを堪能しながらも、観賞後、少々敬虔な気持ちになったような覚えがある。

 それからすると本作は、同じくモーゼを描きながら、かの海割れさえも尋常ならざる規模の干潮と津波として現出させるなど、旧約聖書の奇跡の物語をできるだけリアリズムの側に引き寄せて描いていたせいか、宗教色よりも政治色のほうが強く打ち出されており、実にコンテンポラリーな作品になっていたように思う。

 とりわけモーゼ(クリスチャン・ベイル)を、いわゆるテロリストとして描いた部分があって鮮烈だった。エジプト王子として育った将軍モーゼが、実はヘブライ人であったことから追放され、強大な権力で君臨してユダヤの民を奴隷として酷使するファラオのラムセス(ジョエル・エドガートン)に対し、かつて取った杵柄で民兵組織を訓練して立ち向かうわけだが、その際に、アラブ最強の王の軍隊との戦いよりもエジプトの民の生活を脅かすことで、ユダヤの民を虐げ搾取するファラオへの非難にエジプト人民を促そうとする戦略を立てていた。まさしく今世紀アメリカが“卑劣なテロリスト”と名付けて攻撃している勢力の取っている行動と完全に重なって映ってくるようになっていて、大いに驚いた。

 そして、モーゼの指揮した攻撃に対し、彼と兄弟同様にして育ったラムセスが報復措置として行った攻撃がまさしくアメリカの空爆さながらの掃討作戦として描き出されていたように思う。加えて、モーゼとラムセスの直接交渉の場で、モーゼが奴隷解放と労働に対する正当な対価報酬の支払いを求めたことに対し、ラムセスが心情的な理解を僅かに覗かせつつ、40万人のユダヤ奴隷にそのような措置を直ちにとることは現実的に不可能で、エジプト経済が成り立たなくなるといった理由で拒んでいたことにも驚かされた。もはや宗教的な旧約聖書の物語とは言えないと感じた所以だ。

 アメリカの対イラク戦以降、頻出するようになった“誤爆”という言葉の用法の欺瞞性は、それと対照的に使われる“無差別”テロという言葉の用法とともに、メディアによる操作性を露骨に窺わせる言葉として僕には映っていて非常に不快だったのだが、十余年を経てその効果が浸透してきていることに慄然とする思いに見舞われることが昨今多くなってきている。それだけに、本家本元のアメリカン・エンターテイメントの作品で、このような視座の提起がアラブとユダヤの入替った旧約聖書の物語として構築されていることに、大いに感銘を受けた。

 そのうえで、現世の人民指導者がテロリズムに走ることをユダヤの神が制止し、人間には及ばない圧倒的な力で、テロリストのモーゼが震撼するほどの厄災をエジプトの民に降り注ぎ、現世指導者にはあくまで出エジプトの導きを取らせていたことに大いに感心させられた。そして、その厄災のことごとくが異常気象や疫病といった自然界の猛威として現れていたことにも目を奪われた。なかなか含蓄のある作品だったような気がする。

 畢竟、その意とするところは即ち、力による制裁は神の領域に属するものであって、人間が行ってはならないものだと、その思い上がりを戒めているように思わずにいられなかった。勇ましい話で誰かを利することはできても、問題状況の解決を導くことなど決してないのだと改めて思う。映画のなかで、十戒の6番目の項目「汝、殺すなかれ」が読み上げられることはなかったけれども、それは言わでもがなで、作品的には真っ当な選択だ。黙してひたすら石板を穿つモーゼの姿に何を観るか、問われているような気がした。




参照テクスト:『エクソダス:神と王』をめぐる往復書簡編集採録

推薦テクスト:「お楽しみは映画 から」より
http://takatonbinosu.cocolog-nifty.com/blog/2015/02/post-e12c.html

by ヤマ

'15. 2. 6. TOHOシネマズ8



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