『エクソダス:神と王』をめぐる往復書簡編集採録
トシさん
ヤマ(管理人)



(トシさん)
 時事話題について、会う前に自分の考えのポイントを言っておきます。
1.世界史を見れば、今日の状況は当然という気がしている。つまり「西洋VSイスラム」で、西洋(アメリカ)は、これまでの失敗に懲りず、イスラムを甘く見ていた結果だと。ひょっとしたら遠因は、「原爆という極悪非道をされても、それをころりと忘れ、崇め礼賛する日本国民(私も喜んで留学した)」という存在が認識を誤らせたのかも。
 つまり民主主義を教え豊かにしてやれば、それこそ自爆テロの見本であった特攻作戦をやった国民でも言いなりになったのだからと。
(2.以下略)


ヤマ(管理人)
 先の4点の論点、いずれも興味深いところで、今から楽しみだ。
 ちょっと関連するところで、最近リドリー・スコット監督の『エクソダス:神と王』というのを観た。これがモーゼの十戒を描きつつも、実にコンテンポラリーな作品になっていて興味深い。拙日誌を参照のうえ、可能なら観てきてくれると有難い。


(トシさん)
 映画の件、『エクソダス』は前から見ようと思っていたが、僕は3Dが嫌いなので、字幕ので見ようと思っていたら、上映時間のタイミングが合わなくてぐずぐずしているうちに、近くのシネコンが終わりそう。それと、週刊現代の評論で、ヒゲの、名前忘れたけど映画監督の映画評論で、くさしていたので、見る気を失ったのも事実。PDFファイルにして送るよ。


ヤマ(管理人)
 『エクソダス』の週刊現代の評は未読。
 髭の監督なら崔洋一あたりか? 井筒監督も髭があったかもしれんが。


(トシさん)
 『エクソダス』の評は井筒監督だった。


ヤマ(管理人)
 大金を投じている割に、CG効果が「自分にとっては」さほどでなかったと書いているわけだから、誤った評ではないね。その他は、説明だけだし、その説明にも明らかに誤った記述はないと思う。
 ただ、鑑賞力が弱いなぁ、井筒監督(笑)。あれを尻切れトンボと観るようでは情けないぞ。拙稿では図らずも「問われている」と記述しているが、観客に問うたりしない作品づくりをする井筒監督的には、映画作品で問われたりすること自体が、ヤなんだろうなぁ(笑)。
 いいたいこと、はっきり言えや、もったいぶらんとにって。まぁ、彼は、そういうキャラではある。一度会ったことがあるけど。2000年の上映企画でね。むこうは、無論もう覚えてもいないだろうけどね(笑)。


(トシさん)
 上映打ち切りに何とか間に合って、『エクソダス』の字幕版を観た。全体的には、そこそこ良い映画だと思った。ただ、ヤマの鑑賞文は、深読み過ぎ?かなあとも思う。

1.モーゼをテロリストとして描いているという点が、少し深読みすぎないか? 僕は、アメリカ人の大好きな「自由」を得るためには、ヤマの嫌いな武装、訓練、抵抗も必要という、イギリスからの独立以来の、伝統的アメリカ人の自由観に基づくもので、これならライフル協会など保守層も納得する?というベースで製作されていると思うけどね。この前、ヤマと議論した「非武装中立」などは絵空事というアメリカ人観が出ていると思う。  前にも言ったかもしれないけど、アメリカ留学中に、長女の通った地元小学校図書室に置いてある本に、「戦争を終わらせるために原爆を使用した」とはっきり書いてある文章を妻と見た時は、そう教えていると知ってはいたけど、やはり感慨深いものがあったからね。
 そういう意味で、冒頭のヒッタイトとの戦いのシーンも嫌らしい。知ってのとおり、ヒッタイトは世界初の鉄製武器を持った民族で、当時としては先進文明とも言える。それを、どういう考証かしらないが、後の西洋人につながるエジプト人から見た従来どおりの「蛮族」として描いている。

2.そもそもこの主題で映画を作ろうとすれば、かっての名作『十戒』を前提にせざる得ず、現代人の科学知識を考慮すれば、あまりに神秘的宗教的叙述はできないから、自然災害や最後の海のシーンもああいった表現にもなるだろう。ただ、ここで敢えて反論をいうと、人々に旧約聖書という物語にはどう描かれているかという勉強をさせるには、『十戒』のほうが原作に忠実で、ためになる? どうせ検証のしようのないフィクションなのだから、それなら原作(旧約聖書)どおりに描かれているほうが、キリスト教世界を理解しやすいとも思える。

3.今度は逆に映画を評価する立場で言うと、そもそも原題の副題が「Gods and Kings」と複数形になっている点が、唯一神の賛美でないことと、何が善、正であるかわからないという視点を持っていると言えるかな。だから、最後のシーンも、確かにヤマの言うとおり、井筒監督の尻切れトンボという評は当たらず、あれしかないと思う。
 現在の中東の状況を見れば、イスラエル建国が紛争の根源にあり、『十戒』のように後のイスラエル建国につながるという感じでは観客を納得させられないだろう。これからの苦難を予想させて終わるしかないだろうね。

4.さらに続けると、歴史考証的に疑問がある。最近のエジプト学では、ピラミッドなど巨大建造物は、奴隷の使役だけで作られたものではないという。公共工事的な意味もあり、また民は喜んで参加したり、ボランティア的な面もあったという。ヘブライ人は自分たちの宗教に固執したために迫害された面もあったのかなとも思う。この映画では「ヘブライ」という語は出てきたが、「ユダヤ(ジュダ)」は出てこなかったと思う。よく考えているね。

5.最後にもう一つ気に入らない点。軍事の考証について、ヤマはあまり関心がないようだが、この点を甘く見ると、それこそヤマが恐れる軍事的要素・要因がいつの間にか生活に忍び入ることにならないか。
 僕が坊主頭に固執するのは、かってエルビス・プレスリーが入隊のとき髪を坊主にしなければならず世間を騒がせたことにもあるように、軍隊という異常な状態を、世の中の人が認識すべきであり、これを普通の髪の人も軍人だったなどという認識を持たないことが、軍隊を話題にする際重要と思うからだ。これもヤマの反軍事に役立つと 思うけど。
 話を戻すと、ファラオ・ラムセスの軍隊で、モーゼを追いかける時に、3個「師団(division)」という表現があった。字幕もこう訳していた。師団はナポレオン時代に考え出されたもので、すべての兵科を合わせ持つ部隊という意味(後には専門部隊化もするけれど。)で、映画の中で「軍団」とか「部隊」とか言えばよいのであってわざわざ師団を持ち出すことで、現在の軍事と親しみのあるものとしようとしている・・・というのはそれこそ深読みしすぎ?(笑)

 以上、つい長くなってしまった。文句は言ったけど、エンターテイメントとして、それなりに満足しました。


ヤマ(管理人)
 お~、観てくれたようだね。

 >1.モーゼをテロリストとして描いているという点が、少し深読みすぎないか?
 そうかもしれない。だけど、僕は拙日誌にも綴ったように「アラブ最強の王の軍隊との戦いよりもエジプトの民の生活を脅かすことで、ユダヤの民を虐げ搾取するファラオへの非難にエジプト人民を促そうとする戦略を立てていた」点が、おそらく史実としても旧約聖書の記述としても示されていないものを敢えて映画で描いていたことから、そこに非常に意図的なものを感じたんだよね。

 >僕は、アメリカ人の大好きな「自由」を得るためには、ヤマの嫌いな武装、訓練、抵抗も必要という、イギリスからの独立以来の、伝統的アメリカ人の自由観に基づくもので、これならライフル協会など保守層も納得する?というベースで製作されていると思うけどね。この前、ヤマと議論した「非武装中立」などは絵空事というアメリカ人観が出ていると思う。
 それは、その通りだと思う。前段のテロリストの位置づけを誤読としなければ、トシの指摘どおり、そういう意味で、アメリカとテロリストに基本的に差異はないということを指し示していることにならないか?

 >そういう意味で、冒頭のヒッタイトとの戦いのシーンも嫌らしい。知ってのとおり、ヒッタイトは世界初の鉄製武器を持った民族で、当時としては先進文明とも言える。それを、どういう考証かしらないが、後の西洋人につながるエジプト人から見た従来どおりの「蛮族」として描かれている。
 あの作品の視座としての立ち位置が、ヒッタイトにないのは歴然としているが、それじゃあ、エジプト人なのかと言うと、そうとも言えず、かといってヘブライ(ユダヤ)人とも言い切れない立ち位置だったように思う。僕は、蛮族というよりは、異文化異民族の提示として受け取った気がする。

 >2.かっての名作「十戒」
 このことを抜きに語れない作品だよね。

 >現代人の科学知識を考慮すれば、あまりに神秘的宗教的叙述はできないから、自然災害や最後の海のシーンもああいった表現にもなるだろう。ただ、ここで敢えて反論をいうと、人々に旧約聖書という物語にはどう描かれているかという勉強をさせるには、『十戒』のほうが原作に忠実で、ためになる? どうせ検証のしようのないフィクションなのだから、それなら原作(旧約聖書)どおりに描かれているほうが、キリスト教世界を理解しやすいとも思える。
 この件については、僕は史実にも旧約聖書にも明るくないから何とも言えないところがあるが、僕らの高校の先輩映画好きのブログに以下のような記述があって、僕には大いに参考になったので、紹介する。

この新『十戒』では、最新のCG技術を活用したスペクタクルや豪華なセットが大きな見所ですが、今回は、モーゼを普通の人間のように描いており、神の山で転倒し、頭を打ったせいで、神の姿を見、声を聞き、神と対話しているように描かれてます。
 一見、幻覚とも受け取れるようなショットもあります。
 また、神の起こす奇跡については、デミル作品ではカットされた、蛙、虻、蝗などの疫災もしっかり描きます。ただ、いずれも、見方によっては自然現象のように感じられるようになっています。その分、いくら虫の大群などをリアルに描いても、デミルの奇跡のハッタリには及ばない感がします。デミル版の疫病の死の霧はいまでも恐ろしい(笑)。


 >3.何が善、正であるかわからないという視点
 ここんとこが、いわゆるハリウッド映画らしさを一つ抜け出ている点で、僕がけっこう高く評価しているゆえんだ。

 >最後のシーンも、確かにヤマの言うとおり、井筒監督の尻切れトンボという評は当たらず、あれしかないと思う。
 意見の一致をみて心強い(礼)。

 >4.歴史考証的に疑問
 エンタメ映画のここんとこにどこまでのものを求めるかは、なかなか難しいところだと常々思っているが、観る側が素朴に抱く思いはもちろん自由だし、尊重されなければならないと思う。先日も話したように、戦争映画や時代劇に対するマニアの厳しく微細な突っ込みさえもね(笑)。

 >この映画では「ヘブライ」という語は出てきたが、「ユダヤ(ジュダ)」は出てこなかったと思う。よく考えているね。
 ここんとこの意味するものは? もう少し詳しく教えてくれ。

 >5.最後にもう一つ気に入らない点。軍事の考証について、
 軍事の考証と、軍隊観の涵養は、もちろん無縁のものではないけれど、前者が向かいがちな細部と後者が求める本質論とは、かなりベクトルが異なっているような気がする。両者ともに、事実の検証が必要なのは間違いないことだけど。

 >僕が坊主頭に固執するのは、かってエルビス・プレスリーが入隊のとき髪を坊主にしなければならず世間を騒がせたことにもあるように、軍隊という異常な状態を、世の中の人が認識すべきであり、これを普通の髪の人も軍人だったなどという認識を持たないことが、軍隊を話題にする際重要と思うからだ。これもヤマの反軍事に役立つと 思うけど。
 この件が話題になった日本映画は、木村拓哉が特攻隊員を演じた『君を忘れない』だっけね。僕は観てないけど。

 >話を戻すと、ファラオ・ラムセスの軍隊で、モーゼを追いかける時に、3個「師団(division)」という表現があった。字幕もこう訳していた。師団はナポレオン時代に考え出されたもので、すべての兵科を合わせ持つ部隊という意味(後には専門部隊化もするけれど。)で、映画の中で「軍団」とか「部隊」とか言えばよいのであってわざわざ師団を持ち出すことで、現在の軍事と親しみのあるものとしようとしている・・・というのはそれこそ深読みしすぎ?(笑)
 現在の軍事を重ねようという意図は深読みじゃないと思うけど、用語の件は、「師団」とすることだけでそれが伝わる観客がかなり限られると思うから、用語でそれを伝えようとしてるわけではないと思うよ、たぶん(笑)。

 >文句は言ったけど、エンターテイメントとして、それなりに満足しました。
 それは良かった。おかげで僕も自分では湧いてこない見解がいろいろ伺えて面白かった。


(トシさん)
 >ここんとこの意味するものは? もう少し詳しく教えてくれ。
 モーゼの「出エジプト」は、「ユダヤ王国」などができる以前の物語なので、僕の理解では「ユダヤ人」という概念はなく、後世の人がひっくるめてユダヤ人と言っていることが多いと思うから。(僕が間違っているかも)

 >軍事の考証について
 「師団」というのは重要な軍事単位で、第二次大戦では地上部隊で1~2万人の単位であり、軍縮問題でも話題になる。会社で言えば、1事業部、役所では「局」かな? それだけポスト、予算を巡る思惑がからみ、歴史上もいろいろな暗闘が繰り広げられてきた。今後、例えば自衛隊の師団増設・減設などが話題になった時、国民が軍事用語に敏感になっておくことも、ヤマの心配を防ぐ点で僕は大事だと思っている。だから、映画のような騎兵・戦車部隊ごときで使用してほしくないのだ。


ヤマ(管理人)
 添えてくれた「山川世界史」のコラムに「前13世紀に南シリアのパレスチナ地方に侵入し定着したヘブライ人はみずからをイスラエル人と称し、またユダヤ人ともよばれた。」と書いてあるから、それに従えば、パレスチナ地方に定着する前すなわち「出エジプト」の頃に「ユダヤ」の呼称は生まれてないことになるよね。納得だ。

 >軍事の考証について、
 きみの「師団」という言葉へのこだわりはよくわかった。了解。

編集採録by ヤマ

2015年 2月 4日~2015年 3月17日



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