『紙の月』を読んで
角田光代 著<角川春樹事務所>


 先ごろ“線”という言葉が印象に残る私の男を読んだばかりのところに続いて、九五年の八月に梨花は、やってしまった、越えてはいけない一線を越えてしまったと、まるで思わなかった(P151)というフレーズの出てくる小説を読んだ。高校時分の映画部の部長(だったと思う)真司君のお気に入りで、彼が確かペンネームにも使用していたような覚えのある『ペーパー・ムーン』['73]という、ライアンとテイタムの実の親子が映画のなかで偽の親子を演じる詐欺師の映画のタイトルを想起させる作品だ。

 映画化作品のほうを先に観ていて、日誌個人的動機として描かれていたものが些か希薄な点が気になったと記した点については、夫の正文と梨花の関係が映画では十分に描かれていなかったためであって、原作小説では、一九八六年、二十五歳のときに、二歳年上の梅澤正文と結婚(P54)し、九〇年六月からわかば銀行すずかけ台支店で働くことが決まった(P63)二十九歳の梨花の、三十二歳で正文の言葉に違和感を感じることは相変わらずあったが、気がつけば梨花が慣れていた。そして、夫婦間に「そういうこと」はまったくないままだった(P83)という心身の飢餓感に係る描出に、単にセックスレスということ以上のものとしての説得力があるように感じられた。

 九四年の二月からフルタイムで働き始めた梨花が八月に出会った自分よりひとまわりも下の(P109)大学生の平林光太と関係を持ったのは、…日本じゅうが未曽有の地震に動揺している(九五年)一月の半ば(P128)の三十三歳のときで、人に触れられるのは久しぶりだった。光太が、こうしたことに慣れているのかいないのか梨花にはわからなかった。けれどその手が背や、わきの下や、乳房や、うなじや、二の腕や、腹や、腰骨をなぞるとき、しびれるような快感があった。人の手は、触れられることは、こんなにも心地いいものだったのか。梨花自身驚いたことに、あまりの心地よさに涙がこぼれた。仰向けになった梨花の両目からこぼれた水滴は、左右へと流れ耳をくすぐるようにして落ちた。やだ、泣いてる、と、梨花は胸のなかでつぶやくように思った。気持ちがよすぎて、泣いてる。 いやそうじゃない。静かに打ち消す。梨花は認める。そうだ、ずっと待っていたのだ。ずっとこうして触れられたかったのだ。貴重なものを扱うように、美しいものを撫でるように、こうして触ってほしかった。ずっと待っていた。ずっと。 自分の内側に分け入ってくる光太の性器を感じながら、梨花はあえて錯覚してみる。自分が、彼らと同じ二十代の入り口にいる、未来に途方もない希望を抱えて、何も持たず、何も持っていないことにすら気づかず、かんたんに人を好きになりかんたんにのめりこみ、かんたんに体を許しかんたんに未来を誓い合う、名前のないだれかであると錯覚してみる。長いこと夫に触れられていない退屈な妻ではなく、これから存分に性を謳歌するだろう奔放な若者なのだと、錯覚してみる。光太の肩を抱く左手の薬指に、指輪などはめたこともないと錯覚してみる。…駅のホームはひとけがなく、梨花はベンチに座って電車を待った。薄青い空に白い月が残っていた。唐突に、梨花は指の先まで満たされた気分になっていくのを感じた。満足感というよりは万能感に近かった。いこうと思った場所へどこへでもいくことができる、やろうと思ったことをどのようにでもやることができる。自由というものをはじめて手にしたかのような気分だった。梨花は罪悪感も不安もいっさい感じることなく、自分でも説明のつかないその万能感の心地よさに、ひとけのないホームでひとり浸っていた。 梨花の生活はその日を境に変わった。そのとき梨花はそうはっきり意識していたわけではない。けれどのちに思い返してみれば、たしかにあの朝以来、自分のなかで何かが変わってしまったのだと認めざるを得なかった。そして変化のきっかけは、光太との性交ではなく、あの朝の得体の知れない万能感であったように、梨花には思えてならないのだった。(P133~P135)と綴られていることに、やけに強い納得感を覚えた。

 そして梨花はようやく、彼(夫)の発言のどこに不快を覚えるのか理解した。つまりその温泉旅行は、(忙しくしている)罪滅ぼしではなく、確認なのだ。梨花が居酒屋でおごったあとで、わざわざ都心の高級鮨屋に連れていくようなことだ。彼は梨花に、知らしめているのだ。仕事の中身も重要性も経済力も、自分のほうが梨花よりはるかに上であると。 そう気づいて梨花は笑いたくなる。だってそんなこと、知らしめる必要なんかないのに。当たり前のことなのだから。不快さの理由に行き当たると、とたんに梨花は不快を感じなくなった。そうね。本当にそうね。梨花は正文の一言一言に、笑いながら答えた。 この旅行でも、正文は梨花に触れることはなかった。そのことに梨花が傷つくことはなかった。光太の触れた指の感触が、未だ体の隅々に残っていた。(P139)という状況だったわけだ。

 他方、原作にはなかった隅より子(小林聡美)の存在や「ベンツがモデルチェンジをするたびに買い替えて操作盤の扱いが変わって困るとぼやいていたり」する金持ちの姿、「ニセモノでもいいのよ、こんなに綺麗なんだから」との老婦人の言葉などは、映画化作品の脚本の巧さだと思った。老婦人の言葉は、おそらくは映画『ペーパー・ムーン』からのものなのだろう。

 映画日誌になんとも哀しい映画だったと記した観後感と原作小説を読んでの読後感は相通じるものだったが、原作小説に綴られた梨花の最後の姿である二〇〇一年十月のひと月手前の、うまく国外逃亡を果たし大いなる自由を得たような気分だった。かつて、早朝の駅のホームで感じた至幸感がプラスチックのおもちゃに思えるほど、その気分は確固として強く、巨大だった。私は今まで、何を自由だと思っていたのだろう? 何を手に入れたつもりになっていたのだろう? 今私が味わっている、途方もなく馬鹿でかい自由は、自分では稼げないほどの大金を使った果てに得られるものなのか、それとも帰る場所も預金通帳もすべて手放した今だから感じられることなのか。(P301)と綴られている場面を思わせるような、梨花(宮沢りえ)が晴れやかな顔つきで振り返った場面で終わっていた映画作品と、その一か月後ビザなしでタイに滞在できる期限(P306)の日に、一年前の九月の夜にここから出ていきたいと光太が泣いた(P292)ことと重なるように、ああ、きた。 心の奥底で、そんな自分のささやきが聞こえる。ここまでだ。これで終わりだ。梨花はひとつうなずくと、手提げ袋に手を突っ込む。…パスポートを取り出し男に渡した。そうして自分の声がすがるようにつぶやくのを、聞く。かつて愛した男が言ったのとおなじ言葉を。「私をここから連れだしてください」と。(P307)で梨花の物語が終わる原作小説とでは、同じく哀しさを残しても、最後の印象は随分と異なるような気がした。
by ヤマ

'15.10.15. 角川春樹事務所 単行本



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