『柘榴坂の仇討』
監督 若松節朗


 安政七年から万延、文久、元治、慶応、明治と十三年に及ぶ“雌伏”のときを過ごしてきた志村金吾(中井貴一)に「忠義者じゃのう、おぬしは幸せ者だ」との言葉を掛ける司法省警部の秋元和衛(藤竜也)の存在がなかなか効いていたように思う。己が信じるところをぶれもなく貫けるのは、もちろん当人の覚悟に負うところが大きいのだが、決してそればかりではないことを端的に示している台詞だった。この台詞が原作にもあるのか確かめてみたい気がした。幕臣として評定所御留役を務め、新政府でも司法省警部の職に就きつつ、着馴れぬ洋服に身をまといながら袴姿を懐かしむ彼の心の内には、少なからぬ屈託が折り込まれていたように思う。

 今なお“変える、変えよう”などというスローガンを実に安っぽく掲げるなかで、時代が変わり喪っていくものというのは、得てして美化されがちなのだが、河島英五の歌っていた「時代おくれ」に感じ入る心性は僕のなかにもあって、こういう作品を観ていると、何だかやけに沁みてくるものがある。僕が今だに携帯電話の所持を拒んでいる程度のことを以て、明治という新時代に生きる転換を果たせなかった男たちに居並ぶつもりは毛頭ないが、自分の納得する生き方を続けていきたいとの我儘な思いは、かなり強いほうだとの自覚はある。金吾のような覚悟はさらさら持ち合わせぬままに、彼が秋元から告げられたような「あんたはええよねぇ」という言葉は、これまでにも幾度となく掛けられてきたような気がする。実にありがたいことだとは思うけれども「僕には僕なりの屈託もあるのだが」という想いがないわけでもない。

 それはともかく、本作は、男がいいかっこうを貫けるのは女性の支えがあってこそという部分を実にストレートに打ち出していたような気がするのだが、黒澤明による脚本の雨あがる['00]での妻たよを持ち出すまでもなく、かような物語の王道とも言えるセツ(広末涼子)のような女性像を提示するだけではなく、秋元の妻に雄弁に語らせていた部分がなかなか今風だったように思う。女性鑑賞者は、そこのところをどのように観るのか、大いに興味深く思った。

 昨今、実にお手軽に“禊”だとか“けじめ”だとかいった言葉を使う向きが公人に多く見受けられるが、金吾や佐橋十兵衛(阿部寛)の言葉の持つ重さを少しは見習ってほしいものだと思った。だが、きっと彼らが本作を観ると、映画の安っぽいコピーさながらにあっけらかんと「日本(ニッポン)のいい映画ができました。」などと言うのだろう。

 ともあれ、女性観のみならず井伊直弼についても、彼を襲撃しながらも後に彼の「直」の字を取って名乗ったという直吉と、嘗ての幕府評定所御留役の双方の弁を借りて、評価と批判の両方に目配せを利かせている脚本が、なかなかのものだった。このあたりも原作では、どうなっているのか気がかりな部分だ。

by ヤマ

'14.10.11. TOHOシネマズ9



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>