『洲崎パラダイス 赤信号』['56]
監督 川島雄三


 6年前に県立美術館が「サヨナラだけが人生だ−川島雄三映画祭」と題して、二週に渡る土日の四日間で八プログラム十六本の特集上映を行った際に上映されながら、二本しか鑑賞できずに観逃していた、僕が生まれる前々年の作品だ。

 映画に登場していた「だまされ屋」という蕎麦屋の屋号は、芝木好子の原作からそうなっていたのだろうか? 僕には、どうも映画化にあたっての川島雄三の遊び心のような気がしてならなかった。

 ワケあり男女の是非もなき縁を描いている映画で、哀感に彩られた作品だったが、同じく女性作家が原作の浮雲['55]の陰鬱さとは対照的な明るさが印象深かった。原作者の林芙美子と芝木好子との違いなのか、演出を担った成瀬巳喜男と川島雄三の個性の違いなのか、定かではないが、僕には、川島雄三作品ゆえのもののように感じられた。

 『浮雲』で高峰秀子の演じたゆき子と本作で新珠三千代の演じた蔦枝が、ともに気丈でありながら、男に頼って生きるしかないジェンダーに囚われているように映るのは、時代性のもたらしたものなのか、女性作家ゆえの問題意識なのか、興味深いところだ。

 また、蔦枝のみならず、玉子(芦川いづみ)にしても、お徳(轟夕起子)にしても、初江(津田朝子)にしても、女性には百の相があるのに、男のほうは基本的に堅気かやくざか、換言すれば堅物かろくでなしかの二通りしかない浅薄さが妙に対照的だったように思う。実際そうなのだから仕方がないのだが、そのなかにあって落合(河津清三郎)の鷹揚さが妙に好もしかった。

 その落合の活力は、劇中ではまだ神田と呼ばれていた秋葉原の電気街の活気がもたらしていたもので、売春防止法が制定され、さびれゆく運命にあった洲崎との対照が効いていた。伝七(植村謙二郎)の死が伝えていたイメージは、彼個人の死だけではなく、時代遅れとなりつつある歓楽街「洲 パラダイス 崎」だったような気がする。

 そして、南方で出会ったのち東京で再会し追われるようにして屋久島に流れ着いていた『浮雲』のゆき子と富岡(森雅之)のように、本作の蔦枝と義治(三橋達也)も洲崎の街を出て行っていた。そこには時代に取り残されつつある者のあてどのなさが色濃く漂っていたが、雨ばかり降る孤島へと流れていく感じはなかったように思う。





推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/hotondo_ke/14072102/
by ヤマ

'14. 7.13. あたご劇場



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