美術館夏の定期上映会“怪獣映画特集”

『空の大怪獣 ラドン』['56]
『大怪獣バラン』['58]
『フランケンシュタイン対地底怪獣(バラゴン)』['65]
『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』['66]

 数多ある東宝怪獣映画のなかから、田中友幸製作、本多猪四郎監督、円谷英二特技監督、伊福部昭音楽の作品として、ゴジラでもモスラでもキングギドラでもなく、「日本が世界に誇る特撮技術!! 今甦る怪獣たち ラドン、バラン、バラゴン、サンダ、ガイラ 」となっているセレクションがいい。


 60周年記念デジタルリマスター版が先頃公開された『ゴジラ』['54]のみならず、二年後の『空の大怪獣 ラドン』にも核実験への言及があったわけだが、より幅広く環境破壊的なものを彼らの出現に対してコメントしていたのが効いていたように思う。作中で語られた蓮の実のようにはいくわけがないながらも、人間の引き起こしたことで中生代から呼び覚まされたうえに寄ってたかって攻撃され、最後には燃え落ち尽きていく命に哀切の漂うラストシーンが秀逸だと改めて思った。

 写真に写った断片がプテラノドンのイラストの一部とピタリと重なることを以て判定する場面には笑わされたが、ミニチュアセットの精巧さにはすっかり舌を巻いた。風圧で飛ばされ横転したジープから逆さになった二本の下肢が見えていたのには唖然。モノクロ画像の陰影でカモフラージュすることのできないカラー作品において、模型とは判っても納得させ感心させる見事な丹精に、幼時とはまた異なる感銘を受けた。


 続けて観た『大怪獣バラン』には、怪獣にとって傍迷惑以外の何物でもないという点では『空の大怪獣ラドン』以上のものがあったように思う。人為によって突然変異的に生み出されたものではなく、“日本のチベット”とされる秘境にて古来、静かに湖に生息していたに過ぎないものだった。それが、物珍しい蝶の発見に浮き立った外部の人間が悪気もなく無頓着に土足で足を踏み入れて被災したことで、土地の者が婆羅陀魏山神として祀る神聖な土地への立ち入りを、都会の関係者たちが制止を振り切って冒すわけだ。そして、勝手に怖れ大騒ぎを始めて過剰な攻撃を施すことになっていて、今このタイミングで観ると、バランをハマスと呼びたくなるような一方的な攻撃の在り様がなかなか凄かったように思う。物珍しい蝶を石油資源に見立てると、イラク情勢にも被ってくる。

 当時の作り手たちが何を企図していたかは知らないが、ラドンにしてもバランにしても、末路に哀れが漂っていたことについては、ある種の核心が潜んでいるような気がしてならなかった。それはそれとして、モモンガかムササビかのようなバランの飛翔には思わず失笑させられた。こういうところが怪獣映画の良さだとつくづく思う。


 最も楽しみにしていた『フランケンシュタイン』の2作はリアルタイムで観ている作品で、約五十年ぶりの再見となる映画だ。幼心に僕にとっては怪獣映画のなかでも別格の作品だったのだが、今回観直してみると、かなりのトンデモ映画で、そもそも続編のくせして、キャスティングどころか登場人物名も設定も、きちんと継承されていなかったりして唖然とした。だが、ドイツ生まれで活用制御の難しい破格の科学技術としてのフランケンシュタインが他ならぬ“原子力”を意味していることは、小学低学年で観たときには今ほどに認識できていなかったように思う。飼いならすことが出来るのか、葬るべきものかという問い掛けが何度も繰り返されつつ出てきていたのが、なかなか意味深長だった。また、水野久美(戸上李子、戸川アケミ)の「自分には絶対に危害を加えて来ない」との確信が、何だかとても女性的で笑ってしまうのだが、これもまた幼時には想像の及ばなかったことだろう。

 それにしても、ガイラはフランケンシュタインの左手から生まれたと固く信じて来たのに、その左手首は第1作で既に死滅していたことに愕然とした。おまけに最後に何故か突如登場した巨大なタコと共に海に沈んでいたのがフランケンシュタイン本体だなんて、僕的にはありえないことで呆気にとられた。続編では、富士で地底怪獣と共に地中に埋もれたとも言っていたが、僕もそう思っていて、だから、サンダはフランケンシュタインそのもので、ガイラは左手首から生まれた不肖の弟だと思っていたのに、大ダコとの格闘で終わる第1作を受けて大ダコの登場で始まる続編だなどという繋がりになっていたとは、驚き桃の木山椒の木だった。ヒロシマの研究所が続編ではキョートになっていたことにも何らの必然性は感じられなかったし、どんな事情があったのだろう。


参照テクスト:高知県立美術館公式ページ
by ヤマ

'14. 7.20. 美術館ホール



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