『祖谷物語 -おくのひと-』
監督 蔦哲一朗


 いきなり深みのある雪の山村の映像が広がり、予告編でイメージした以上の映像世界に圧倒され、香気すら感じる作品だった。現代日本を描いて、ただの一度もケータイの出てこない映画世界がいま成立しているのを目撃して感銘を受けた。半年前に急逝した坂東眞砂子の直木賞受賞作『山妣は明治時代の物語だったが、根底のところにおいて、どこか通じるものを含んでいるような作品だと思った。

 僕は、祖谷の徳島の隣県高知に住んでいるから、近年の尋常ならざる鹿被害については、改めて知るまでもないことなのだが、環境保護活動家マイケル(クリストファー・ペレグリーニ)の言う、無節操な拡大造林が緑の砂漠を生み出し、山の獣が山里に下りて来ざるを得なくなって被害が増えたのだとの弁に一理あるとは思いつつも、それ以上に、山里に人がいなくなって人手が薄くなった分、相対的に獣に対抗できる力が弱まって人が害を被るようになった面が強いように感じている。

 作り手は、昨今の不毛なディベートやブログ炎上のように、言下に相手を否定するような態度は決して見せない村民を描きつつ、マイケルたちの行動が言わば芸術家的自己表出にすぎず、山奥の寒村のトンネル1本すら阻止できない現実を示しながら、それでは環境保護にも自然保護にもつながらないことを映し出していたように思う。

 かといって、雨宮(河瀨直美)のように、マイケルが言うところの悪循環サイクルのなかで環境再生に努めても、画期的な研究成果さえ利権圧力によって闇に葬られるのだから、マイケルが工藤(大西信満)に祖谷で出会った際に言った、「ドロップアウトしているだけでも社会に貢献している。なぜなら少なくとも悪循環のサイクルに加担していないからだ。」というようなことが、全くの的外れとも言えない部分を含んでいることをも描いていた気がする。

 結局は祖谷を立ち去ったマイケルたちも、研究室を追われたらしい雨宮たちも為し得ない難業を仮に果たせるとしたら、祖谷に残り、お爺(田中泯)の生き様を何とか継承したらしい工藤のようになるしかないとすれば、その過酷さは本作でも十分描かれていただけに、凡人には真似できないことだ。春菜(武田梨奈)が最後にそのような工藤に邂逅し得たのは、お爺の魂の導きのようにも描かれていたが、狼少女のように育った春菜は、工藤との間に子を為し、おおかみこどもの雨と雪のような次世代を育むことができるのだろうか。そこに少し希望と願いが込められているように感じた。

 それにしても、撮影と田中泯と武田梨奈が素晴らしい。特に二人とも、雪山のなかを歩くいくつかの場面での身体の動きが良かったように思う。

 169分は、さすがに少々長すぎるように思うが、切るに切れないカットが多かったのもよくわかるような気がした。編集というのは、本当に難しいのだろう、特に脚本も監督も兼ねた者が自分でやると尚更。
by ヤマ

'14. 6.16. あたご劇場



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