『青天の霹靂』
監督 劇団ひとり


 みのもんたあたりに庶民の代弁者面されるとムカついて仕方がないのだけれども、大泉洋が場末のマジック・バーでくすぶる失意の手品師を演じて“虚しく惨めな人生”に涙するなかで、ささやかながらも侮れない“生きる理由”を得る姿には、心打たれるものがあった。

 主な舞台になっていた四十年前というと、僕が高校生の頃だ。あれほどに昭和レトロが濃厚だったかとの疑問が湧いたが、今の時代の人たちからすれば、昭和三十年代も四十年代も、さしたる違いはないのかもしれない。だが、あの信吉マスターの四十年前がこの少年かと思うと、自分の寄る年波に唖然とした。

 何と言っても、花村悦子を演じた柴咲コウが素敵だった。出世払いと言って神社の賽銭に1円玉を投げるときの感じや、病室での正太郎(劇団ひとり)との場面、晴夫(大泉洋)との場面などで見せる表情に、作り手の託した“母なるもの”への想いが見事に表れていて感心した。「生きる理由」との言葉に納得感を与えることができていたように思う。四年前にFlowers['10]を観たとき、仲間由紀恵の演じた慧が本作の悦子と同じ選択をしたことに対して「慧の自己決定権を尊重した結果だから止むを得ないことなのかもしれないが、こういう選択が同調圧力によってもたらされるようになることには反対だ」と記したような引っ掛かりを覚えなかったことが、我ながら興味深く感じられた。

 不惑の年に至ろうかとしていた男の人生の危機を救い、ささやかな奇跡を引き起こしたのは、母親の愛情を彼が知ることからだったわけだが、原作・脚本・監督を担った劇団ひとりは、基本的に生真面目なのだろう。最後はもっと大胆に“インドから来たペペさんの奇跡”を設えても良かった気がするが、妙にこじんまりと真っ当なまとめ方だったように思う。

 過去を変えることで現在に影響を及ぼすのではなく、過去の真実を知ることで現在が変わるというタイムトラベルの約束事をきちんと守りつつ、晴夫が青天の霹靂のごとく得た“天啓”によって「生きる理由」を見出したことこそ、息子の人生最大の危機に対して亡き母の魂が施した贈り物であるように描かれた物語だったように思う。

 そういう意味では、タイムトラベルの掟を破り、むしろ積極的に過去を変えることによって未来の現在を変え、救おうとする物語だった『X-MEN:フューチャー&パスト』(X-MEN:Days Of Future Past)と正反対ながら、奇しくも日米の両作ともに1973年に還っていたことが興味深い。

 X-MENでは、十年後の未来から五十年遡るのだが、ベトナム和平を約したパリ協定の年であることが前面に出てきていた。ベトナム問題は、日本においてもそれなりに大きな社会問題だったが、本作では“四十年前”に意味はあっても“1973年”にはさしたるこだわりはないようで、ベトナムのべの字も出て来なかった。やはりどうこう言ったところで戦争そのものには巻き込まれてないからなのだろう。だが、これからは、そうもいかなくなるのだろうか。僕の生きてきた時代感覚で言うと、日本が日本でなくなるような気がする。情けないことだ。




推薦テクスト:「田舎者の映画的生活」より
http://blog.goo.ne.jp/rainbow2408/e/c9ec1ab7618e2d9c18ee4acb7668895c
by ヤマ

'14. 6.11. TOHOシネマズ1



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