『ゴーン・ガール』(Gone Girl)
監督 デヴィッド・フィンチャー


 フィンチャー作品らしい趣味の悪さに満ちた快作だった。いかにも「ほらぁ~恐いでしょ」というようなラストショットには失笑したけれど、それもブラックなユーモアとしたものだろう。ハーバード大卒で頭が切れ、何事も完璧に自分がコントロールできないと気が済まないサイコな“アメイジング・エイミー”を演じたロザムンド・パイクの女優賞ものの演技に痺れた。実に抜かりのない周到さ以上に、思わぬアクシデントに対するリカバリー力の高さを鉄の意志と厚顔で果たしてみせる凄みに圧倒された。演技的には、とりわけ、思わぬエラーで有り金を全て奪われたときに踏んだ地団太と、ニック(ベン・アフレック)からの思い掛けない呼び掛けに魅入られた場面のインパクトが、とても印象深く残っている。

 いかにもパワーゲーム好きなアメリカンテイストで、結婚生活もどちらが主導権を握り支配するかの闘争として描かれていたように思う。その点では、本当に男なんぞ形無しだ。観後感は、どこか日本映画の夜明けの街でに通じるものがあったが、フィンチャー作品でもあるし、遥かにハードコアなテイストだったように思う。

 そして、エイミーのみならず、妻の失踪事件勃発で大騒ぎになっている渦中にニックの自宅を訪れセックスを求める愛人アンディ(エミリー・ラタイコウスキー)にしろ、エイミーが訳ありと見抜くや男をけしかけ、大金を巻き上げる女にしろ、あるいは、TV番組の人気司会者シャロン・シーバ(セーラ・ウォード)も含め、女性の手に負えなさ厄介さというものを実に痛烈に描き出していたような気がする。

 原作・脚本のギリアン・フリンには、きっと手痛い目に遭ったことがあるに違いないと思わずにいられなかったのだが、聞くところによると、女性なのだそうだ。エイミーに託して己が妄想を語ったのだろうか。ますます怖い話だと苦笑を禁じ得なかった。


 それにしても、エイミーの元々の計画では、“あばずれ娘に乗り換えた夫から捨てられそうな妻の屈辱”というものを自分に与えたニックを殺人犯に仕立て上げて死刑送りにした後、どうやら最後には自殺するつもりだったようなのに、比較的早い段階で計画カレンダーの自殺の付箋紙が剥がれたのは、どうしてだろう。

 僕の解釈では、本作の鍵を握っているのは、実はエイミー以上にアンディの人物像だという気がする。失業後のニューヨークからミズーリ―への引っ越しやエイミーの両親への資金援助といった夫婦間での“事前相談なし問題”どころではない愛人との“パウダースノウ払い除けキス”を目撃したうえに、もしかすると愛する人のエリザベスが仕掛けたような自分の脱いだ下着をエイミーのクローゼットに仕舞い込むなどという悪意に満ちた悪戯でもなければ、なかなか入手できないような真っ赤なパンティをアンディから(ニックの知らない形で)突き付けられたことが、“完璧エイミー”のプライドを打ち砕き、夫婦間の亀裂を決定的にしたのではないかというわけだ。精一杯アメイジング・エイミーたらんとして生きてきて、ちっとも幸福感が得られずに、束の間、夢見たニックとの甘い生活もズタズタになり、全てを終わりにしたくなったのは、実際のところ、本心だったような気がする。

 だからこそ、アンディのその挑発にブチ切れたエイミーが、彼女なりに精一杯愛していたニックに対して、アンディの思惑どおり離婚することだけは絶対にしたくないので、夫の裏切りを懲らしめたうえで自分も死のうと思って立てた計画を進めているうちに、アンディが残した下着の悪意をも凌駕する悪意に満ちた己が計画に自家中毒を起こしサイコパスの本領を発揮して悪に染まり、死ぬのが馬鹿らしくなった、というふうに感じている。

 アンディについては、奸智に長けたエイミーとは対照的な極普通の若い娘と観る向きもあるようだが、エイミーの失踪直後にニックの家に訪ねてきて泊まっていくことの愚行ぶりに思いが至らないというか、会いたいとの気持ちが昂じて抑えられないのは、エイミーほどのサイコではないにしても、やはり普通とは言いがたい気がしているし、何よりも、凄腕の弁護士(タイラー・ペリー)が機先を制されてニックのTV出演を取りやめて作戦を練り直そうと考えるくらい機敏に、自分のポジションを守る記者会見に打って出ていたことからも、なかなか侮れないプチ・エイミーのような気がしてならない。


 本作を観て、エイミーが仕掛けた謎解きゲームの第1ヒントに用意されていた真っ赤なパンティを重視する観客は決して多数派ではないとは思う。だが、てっとり早く離婚に向かわせるには、問題を顕在化させたほうがいいと考える若い娘というのはありがちなことだ。ただ「奥さんにちゃんと話して」という相手への要求までに留まる女性が大半と思われるなかで、実力行使をするのはそれより少ないだろうし、エイミーのような奸智ではなくて浅知恵でもあるのだが、深夜の訪問セックスやうまく立ち回って同情を買っていた記者会見などから、アンディならやりかねないような気がしたわけだ。

 表立ってはとてもそんなふうには見えないというのは、人間誰しもに言えることで、女性には特にとてもありがちなことのように思う。エイミーも、映画のなかでは裏面のほうを描出しているから唖然とさせられるけれども、この物語世界における多くの人々は、彼女の“真の姿”を知らないわけで“アメイジング・エイミー”だと思っていることと通底していて、なかなか巧みに好対照を為すように設えられているように感じた。一皮むけば、女は怖いよという本作のなかで、アンディだけは例外だという造りをするわけがない。

 そもそも男は小心者だから、ばれることを恐れていれば、妻がいつ帰ってくるかもしれない自宅に愛人を引っ張り込んだりはしないはずなのだ。でも、おそらくアンディからの強い求めにより、自宅に来させることを拒み切れなくて、妻の留守が間違いないときに連れて帰ったことがあるのだと思う。それでも、最初のときは、そこでセックスまではしていないはずなのだが、一度、禁断の自宅での逢引を許してしまったことで、その後、数回はアンディも来ていて、そのうちセックスもするようになっていたかもしれない。少なくとも、それまでに一度も来たことがない家に夜中に突然訪ねてくるというのは、考えにくいような気がする。

 エイミーの失踪報道に動転して夜中に突然アンディが訪ねて来たのも、おそらく、自分の仕掛けた挑発による夫婦喧嘩や離婚は想定していても、警察が介入してくるような大事件になるとは思ってなかったからなのだろう。思い当る真の原因(パンティ突き付け)のことは言えないし、不安に駆られて見境なくニックを頼ったような気がする。

 もっとも、ニックにはアンディの下着の記憶まではなかろうと高を括って、エイミーが“アンディのものでもなんでもない派手な下着”を構えて小道具に使ったという可能性もなくはないが、二人をコケにするためだけならともかく、警察が介入してくる事件化を狙って仕掛けているなかで、何年分もの日記を製作して尚且つ焦げ目まで入れる周到さで臨むエイミーの“完璧主義”が、アンディの下着でもないものをアンディの下着として使うことには我慢がならないような気がする。ましてや、もし、ニックが一瞥して「アンディがこんな派手な下着を履くわけないのに」などと笑うようなことがあったとしたら滅茶苦茶プライドが傷つきそうなエイミーが、そんなリスキーな小道具の使い方をするわけがないように思う。そもそも、あのような謎解きゲームを着想したこと自体が、突き付けられたパンティへの意趣返しのような気がしてならないくらいだ。第1ヒントに使ったのもそれゆえではないかという気がする。

 ただ重要なのは、アンディは、エイミーほどのサイコパスではない一方で、エイミー化してもおかしくない地続き感を備えているということだ。エイミーは、“アメイジング・エイミー”として育てられた特異性が彼女をサイコパスにまで歪めたのであって、逆に言えば、それがなければ、彼女はサイコパスになってないのではないかとも思える描き方をしているところに意味があるように思う。同様に、エイミーに限らずアンディだって、エイミーのような育ち方をすれば、充分にサイコパスになっていたのではないかと思える部分を窺わせており、作り手が描きたかったのは、実はその部分ではないかという気がするのだ。

 そして、大きなポイントは、エイミーもアンディも一見したところ異常さは微塵もないのに、「見た目は普通でも、普通じゃない」というところで共通している必要があるし、レベルに格段の差はあっても「一皮むけば相当なもので、とてもとても普通じゃない」というところが共通していないといけないという点にあるように思う。だから、例えば『愛する人』のエリザベスがやったようなことをアンディがしでかしてないと、作品的には釣り合いが取れないことになる一方で、その部分をあからさまに描くと、前述したような意味での“なかなか巧みな好対照”ではなくなる気がする。本作は、そのあたりの匙加減が絶妙で、きちんとそのように描かれていたように思うから、決して愉快な作品ではないのだけれども、流石と言うべき出来栄えなのだと思う。


 もう一つ目を惹いたのが、ニックとエイミーのいかにも業の深い関係性だ。経済的には何不自由ないはずのデジー(ニール・パトリック・ハリス)とのサイコパス同士の暮らしにエイミーが我慢できなかったのは、単にTVでニックからの思い掛けない呼び掛けを観たからではなくて、それ以前から、デジーの有頂天が透けて見える優越感と満足感を目の当たりにして、“しまった感”以上にウンザリ感を催していたところが秀逸だった。彼を頼るのは仕方なかったにしても「これじゃあ、やってられない」と、自分のほうが主導権を握らないと気が済まないエイミーには耐えがたい様子をロザムンド・パイクが鮮やかに醸し出していて、圧倒的優位にある「上から目線」のなかで崇められることが、むしろ却って屈辱感を刺激され、虫酸の走っている様子が可笑しみとともに切々と伝わってきた。

 ニックが呼び掛けるTV画面に観入っている場面でのエイミーの表情に何を観るかが、本作及びエイミーの人物をどう解するかに直結する最大のポイントだと思うのだが、ロザムンド・パイクは、とてもニュアンス豊かに、さまざまに取れる絶品の表情をしていたような気がする。

 僕の解釈では、エイミーにしてみれば、粉雪のようなパウダーシュガーが舞うなかでのキスやサプライズ・プロポのときのように、思いも掛けなかった夫の言葉に意表を突かれ、サイコパスのほうではないエイミーが反応して先ず心打たれたものの、もうおいそれとは引っ込まなくなっているサイコパス・エイミーのほうがすぐに「ニックはまだ捏造日記まで辿り着いてなくて私の悪意には気づいてないんだ」と読んだのじゃないかという気がした。まさか手練れの弁護士とタッグを組んで芝居を打ってきているとまでは思わなかったのだろう。そういう面では夫を見くびっていたはずだ。だから「それならまだ間に合う。戻ろうと思えば戻れる」と踏んだのではなかろうか。一文無しになって背に腹は代えられぬとデジーを頼ったものの、やはりエイミーには耐えがたい相手であるデジーの元を去っても行き場があると考えたような気がする。ニックならデジーと違って与しやすいというわけだ。あとは、どう辻褄を合わせるかだけだが、そのあたりは天才的に奸智に長けたエイミーは、拉致と暴行を偽装したうえで始末するという荒業を貫徹する。

 加えて、子供を作ってしまえば縛り付けられると見込んだニックの子を例によって“事前相談なし”に人工授精で宿し、まんまと目論見どおり事を運び、夫を取り込んでいく。僕には、ニックを終身刑の煉獄に繋いだ怖いエンディングのように思えたが、それが判っていて繋がれていく分身を観てマーゴ(キャリー・クーン)が絶望感に満ちた嘆息をしているなか、おそらくニックはあえなく飼いならされてしまうのだろう。マーゴの「こいつ(エイミー)からは逃げられない」という絶望感を窺わせた表情が強烈で、何とも哀れだったが、ニックの元に舞い戻り、元の鞘に取り敢えずは収まるまでの顛末というか運びを“鉄の意志と厚顔で果たしてみせる天晴れぶり”は、まさに負のアメイジング・エイミーだと思った。





推薦テクスト:「TAOさんmixi」より
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推薦テクスト:「雲の上を真夜中が通る」より
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推薦テクスト:「つぶ。さんmixi」より
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推薦テクスト:「映画通信」より
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推薦テクスト:「映画感想*観ているうちが花なのよやめたらそれまでよ」より
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推薦テクスト:夫馬信一ネット映画館「DAY FOR NIGHT」より
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by ヤマ

'14.12.16. TOHOシネマズ5



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