『夜明けの街で』
監督 若松節朗

 最後に渡部(岸谷五朗)が「これが八ケ月間の僕の不倫の情けない顛末だ」と呟き、仲西秋葉(深田恭子)が「いっぱい笑った、いっぱいドキドキした、いっぱい切なくなった。渡部さん、ありがとう」と独白する。全くその言葉どおりに男は情けなく、女は靭く健気に美しく、まぁ、しかし、そういうもんなんだろうなぁといささか堪えた作品だった。とりわけ、これは事故だと呟きながら、渡部が嵌っていく過程に失苦笑させられたように思う。

 あの秋葉に秋波を送られて持ち堪えられる男なぞいないだろうと思わされる納得のキャスティングだったのだが、それにしても、ホントに男はたわいないよなぁと嘆息せずにはいられない。秋葉が渡部を篭絡した意図について、いろいろと触発してくれるところのある作品だったのだが、その真意がどこにあったとしても、単に思惑通りに事を運んでいくだけではない真心も備わっていたようだから、渡部にしても、ただ振り回されただけではなく、そこが救いだと思った。

 原作を読んでみたくなって手にしたら、渡部による一人称語りでの小説だったおかげで、僕が原作に当たりたくなった一番の動機である“秋葉が渡部を篭絡した意図について”は、映画を観て触発された以上のものが読んでも得られなかったのだが、まさしく本当にほんとうに、男というのは滑稽な生き物だ。(P15)との自省が全編通じて色濃い作品で、結末に至るまで、実に原作に忠実な映画化だったことに驚いた。

 原作小説を読んでキーワードとして残ったのは“封印された心”だ。渡部の親友 新谷の指摘した“秋葉の心の封印”というのは、妻帯者との恋に課した自制であり、十五年前に死んだ本条麗子の妹 釘宮真紀子の指摘した“秋葉の心の封印”とは、事件に関する秋葉の十五年間の沈黙を指していたが、文字通り“封印された心”という言葉を共に使って書かれた小説における一番の主題について、それゆえに僕は“秋葉が渡部を篭絡した意図”だというふうに感じている。何を思って彼女は、渡部を不倫の“甘い地獄”(P66)に誘い込んだのかということだ。そして、男性作家の手になる本作の秋葉の“封印された心”のなかの、その渡部への思惑の部分について、女性の読者はどのように解するのだろうなどと思った。

 「あたし、あなたのことを利用してた。不倫したのは、あの人たちを苦しめるため。あたしがどんな不道徳なことしたって、あの人たちはあたしを責められないから」「嘘だ」「悪いけど、嘘じゃない。家の前で、初めて父と会った時のことを覚えてる? 父があなたを見て不愉快そうな顔をした時、このひねくれた計画を思いついたの。あなたには申し訳ないと思ったけど、不倫はよくないことなんだから、自業自得よね? それともう一ついえば、不倫を体験したかった。どんな思いがするものなのか知りたかった。だからね、あなたじゃなくてもよかったの」…「あなただって、ほっとしてるでしょう?」意味がわからず、彼女の目を見返した。「あなたはあたしのものだと思うことにしたから-こんなことをいわれて、少し怖気づいたでしょ? …あたしが会社の人に結婚するつもりだって話したことについても、焦ってたんじゃないの? だけど、もうこれですべて解決。何も悩むことはない」秋葉の言葉に、目の覚める思いがした。このところの彼女の妙に積極的な言動も、すべて意図的なものだったのか。「あなたが早まって離婚するのが、一番怖かった。あなたの家庭を壊したくはなかった。それだけは防ぎたかった。あたしが積極的になれば、きっとあなたは考え込む。そう思った。あたし、あなたの性格はわかっているつもりよ」「秋葉…」「さっきいったことは嘘」秋葉は微笑んだ。「あなたでなくてもよかったってことはない。やっぱりあなたでよかった。すごく楽しかったし、どきどきした。ありがとう」(P312)

 最後のはしの部分は映画のほうが更に優っていたと思われる秋葉のこの言葉に、たぶん嘘はないけれども、いちばん肝心なところは封印されていると感じた僕の想いは、原作を読んでもそのまま残っている。

 そこには秋葉の父 仲西達彦の影が色濃く差していて、彼女の言葉にあった“単に父親を苦しめるため”にではなく、彼女があなた、負けず嫌いだものね(P293)と言い、仕事熱心で優しい人です。それから…家庭を大切にできる人だと思います(P284)と語った渡部という男に、おそらく嘗ては“あたしがどんな不道徳なことしたって、あの人たちはあたしを責められない”などということはなく、ごめんなさいと言えないことに対して本気で腹を立てていた(P24)はずの父親の人となりに通じるものを嗅ぎ取ったからだろうというふうに感じている。

 そして、自分の父親がどのようにして不倫に嵌っていったのかを渡部との関係のなかで身を以って知ろうとしたのだったような気がした。不倫する奴なんて馬鹿だと思っていた。(書き出し)はずの男がでも、どうしようもない時もある-。(P4)となっていくさまを、そして、それを促し寄り添っていく女の真情を、知りたかったのだろうと。

 それにしても、原作を読んでみて、その台詞回しが深田恭子にぴったり嵌っているように感じられて改めて驚いた。深田恭子と言えば、八年前に東京国際映画祭に招待されて出向いた際に間近に見る機会があって、一際強いそのオーラに打たれた覚えがある。『ストロベリー・オン・ザ・ショートケーキ』というTVドラマを観て惹かれていたのだが、このときの『阿修羅のごとく』の翌年に公開された下妻物語ですっかり魅了され、以来、気になっている女優だ。

 映画を観たときには、男のほうでの、その後の“日常における緩慢な地獄”が照射されていて、渡部の親友である新谷(石黒賢)が一足先に迎えていたものに、彼が追いついたような感じの描き方だったような気がしたのだが、原作を読むと『番外編 新谷君の話』(P319~)というのがあって、まさしくそのとおりだった。つくづく原作に忠実な映画化作品だったのだと思った。

 秋葉の涙の不意打ちを食らって本音をいえば、呆然と立ち尽くしながらも、僕の中では何やら熱いものが膨張し始めていた。くだけた表現を使うなら、“わくわく”という感じだ。今まで経験したことのない何か、自分が出会ったことのない出来事が起こるんじゃないかという期待感が、ひしひしと押し寄せてきていた。(P25)渡部が、秋葉の本心が見えない。しかし僕の心は浮き立っていた。異性に対しての駆け引きを楽しむなんてのは、何年ぶりだろう。ただし、とエレベーターホールに向かいながら僕は僕自身にいい聞かせていた。浮かれすぎてはいけない。自分は結婚しているし、子供もいる。秋葉に恋愛感情を抱いているのは事実だが、それはあくまでも擬似のままにしておかねばならない。いわばゲームだ。本気になってはいけない。(P40)と思いつつ、自分がいかに多くのものを失ってきたかを自覚せざるをえない。こうして若い女性と食事をする機会を得ても、現在進行形で語れる瑞々しい話題といったものがまるでない。素敵な体験も、自慢話も、全部遠い過去のことだ。(P46)ということに気づかされるなかで、彼女の涙を見るのは二度目だった。(P57)というアクシデントに見舞われ、こうして僕たちは、本来ならば越えてはいけない境界線を跳び越えてしまった。越える前はその境界上には大きな壁が立っているのだと思っていた。だけど越えてしまうと、じつはそこには何もなく、壁は自分が作り出した幻覚だったと知るのだ。だから大したことじゃない、ということいいたいのではない。むしろその逆だ。たとえ幻覚であろうと、壁が見えていたから、境界を越えることなど想像もしなかったといえるのだ。もはや壁が見えない僕は、今度こそ自分の意思だけで感情をコントロールしなければならない。(P61)地平に立ち入ることになる。成り行きのなかで逃れようもなく嵌っていくさまに、何ともリアリティがあって且つ滑稽で哀れっぽくも妬ましい気にさせられる。

 しかし、渡部が越えてはいけなかった境界線は浮気についての定義は人さまざまだ。ある人はこういう。『配偶者以外の異性と個人的に会ったりしたら、すでに浮気。デートなんて論外。だってそういうことを知ったら、その人の妻や夫は傷つくわけだから。配偶者を傷つけている以上、それは浮気』 またある人はこう反論する。『結婚していても、生身の男女であることには変わりがないんだから、ほかの異性に恋愛感情を抱くなというのは無理。妻や夫にばれないようにすることは必要だけど、デートぐらいはいいんじゃないかな。むしろそれぐらいのドキドキ感があったほうが、人生が楽しくて、結果的に夫婦関係もうまくいく。キスぐらいまでは許されると思う。やっぱりセックスするかしないか』 人によって価値観が違うのだから、定義が違うのは当然のことだ。また、その時に置かれている状況によって意見は変化する。僕だって、昔は前者と同様の意見の持ち主だった。結婚している人間はデートなんかしちゃいけないと思っていた。ところが秋葉と出会ってから、僕の考えは急速に後者側に傾いた。セックスさえしなければ浮気ではない、と考え始めているのだ。無論、そのほうが都合がいいからである。(P44)などと考える彼の言う“セックス”などではなく、また一度きりなら浮気、継続性を感じさせた場合は不倫(P65)ということでの浮気とは言えない“不倫”などでもないように思う。この定義問題というのは、全て“セックス”という性的コミュニケーションの領域をどういうものとして捉えるかということにあって、肉体的接触を伴わなくても性的コミュニケーションである以上デートなんて論外と考える人もいるわけで、その人にとってはデートもセックスであることにほかならない。だから、それに対してセックスをしていないと抗弁しても何の意味を持たないし、性器を介在させない肉体的接触はセックスではないとか、コンドームを付けていれば直に接したことにはならないとか、また、至高の性的コミュニケーションをもってそう呼ぶ立場からは、接しても漏らしてなければしたとは言えないとか、出す出さないの問題ではなくエクスタシーの共有が得られてない場合はしたことにならないという考え方もあるように思われるくらいで、そもそも“境界線”自体の成立していないことのような気がする。

 だから、渡部が越えてはならなかった境界線というのは、すっかり舞い上がってしまって、新谷の求めていた“覚悟”のほどへの深慮もなく情に流され、彼の指摘した“秋葉の心の封印”を解き、『あなたは今、取り返しのつかないことをしたのよ』 彼女はしゃがんだ格好のままでいった。『あたしに夢を見させた。決して見てはいけないと自分に禁じてた夢だったのに。わかる? 夢を見る前より、それが覚めた時のほうが心は寒くなるんだよ』(P184)などと言わせるような言質を取らせてしまう領域に踏み入ったことにあるのだが、新谷同様そのことを本当に理解するのは、身をもって“甘い地獄”の後に来る“日常における緩慢な地獄”を味わってから、ということなのだろう。

 その前の段階の“甘い地獄”のさなかについての描出の生々しさが本作の醍醐味で、作家としての東野圭吾の真骨頂なのだろう。幸せな時間よりも、神経を尖らせている時間のほうが圧倒的に長い。嘘と芝居を繰り返すことだけで、僕の精神はクタクタになってしまう。そんなに苦しくて大変なら、不倫なんてやめりゃいいじゃん--そう、全くそのとおり。自分でもよくわかっている。だけどベッドに入り、明かりを消して闇を見つめながら秋葉と過ごした時間を振り返る時、僕は至福の境地に陥ってしまう。その魔力に一度魅せられたなら、どんな苦しみさえも何でもないことのように思えるのだ。(P70)家のドアを開ける時、嫌な予感が胸をかすめた。しかしこれはいつものことなのだ。秋葉とのことが有美子にばれてるんじゃないか、ばれてたらどうしよう、ばれてはいなくても何か重大なミスをして怪しまれているんじゃないか、様々な不安を抱えたまま僕はドアを開く。靴を脱いでいると奥から有美子が現れた。彼女の顔をまともには見られない。どんな表情をしているのか、確認するのが怖い。この不安感も、不倫と引き替えに背負わねばならないものだ。(P117)自分は本当にずるくて弱い男だなと思う。ホワイトデーは秋葉と過ごそうと決めていたし、そのためには多少危険なこともしなければならないと覚悟していたはずなのだ。それなのに秋葉のほうからこういう具合に提案されると、何となく尻込みしている。イブにしてもバレンタインデーにしても、秋葉は二人で会うことを諦めてくれていた。いわば僕にとっては、『だめで元々』の気楽な状態だった。だからこそ、秘密のデートを実現させられたともいえる。だが今回は『だめで元々』ではない。そのことが僕を焦らせていた。(P241)といった述懐を読みながら、不倫をするならそれに見合うだけの器を備えてないと、渡部・新谷がうまく運んだと思っている手の込んだ大芝居を仕組んだ最初のイベントデーのときから見透かされていたということになるわけで、それで言えば渡部の器なら、クリスマスイブイベントのために新谷に協力を求める前に、奥さんには既にばれていたに違いないという気がしてならなかった。


by ヤマ

'11.10.15. TOHOシネマズ3



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