『her/世界でひとつの彼女』
監督 スパイク・ジョーンズ


 エンドロールを眺めていたら、スカーレット・ヨハンソンの名前が出て来て驚いた。あのサマンサと名乗ったOS1の声は、彼女だったのかと得心。セオドア(ホアキン・フェニックス)が生身の女性そっちのけで入れ込んでしまうことへの説得力を持たせていた台詞とその表現力に大いに感心した。とりわけ、セックスが必ずしも肉体の介在を要しなくても成立していることに、リアリティを感じさせ得ていたような気がするところが凄いと思った。

 生理的な捌け口としての消極的なセックスではなく、コミュニケーション手段としての積極的なセックスにおいて人が求めているのは、その交感によって得られる特別な快楽を通じた関係性の強化に他ならないから、性的ニュアンスを帯びた快感を掛け替えのないものと思える形で与えてくれるツール自体は、必ずしも肉体である必要はなく、ましてや性器に限局されたものでは決してない。だが、その意味を問うことなく、性器の挿入行為のみをもってセックスだと思っている人が少なからずいるような気がする。そして、性的快感が物体に固着したフェティシズムは変態とされ、言葉による交感やヴァーチャルなイメージ交換によるものであったりすると、一笑に付されたりしているような気がしてならない。

 そういう意味からは、人の求めているリアルというのは、結局のところ、当人の心の中のものだから、代筆屋の書いた手紙であろうが、高度にプログラミングされたOSのレスポンスであろうが、人の心を捉え得ることにおいて、テクノロジーの問題は決して本質的なものではないとする視点の提示は、なかなか鋭い。ヴァーチャル・リアリティなどという言葉が人口に膾炙するようになったから、多くの人々が勘違いしているように見受けられるところを巧みに衝いている。いかなるリアリティも畢竟ヴァーチャルであるとも、ヴァーチャル・リアリティもリアルに他ならないとも言えることのような気がする。

 それにしても、肉体を持たぬがゆえに時空にすら囚われぬ“超越性”を有しているサマンサが、ないものねだりの肉体を求める際に、人間と同じく“代用”を試みるところが、人間的なるものの本質を衝いていて、大いに感心した。実に的確で皮肉なプログラミングだ。

 結局のところ、己が孤独を救うものも苛むものも、己が内にあるものなのだろう。リアルが実で、ヴァーチャルは虚であるとするばかりか、そこに真偽までも意味付与できるかのような言質をよく見かけるが、そんな単純なものでは決してないと思わせるリアリティを現出させていたように思う。自分なら、音声だけのサマンサより生身のエイミーやキャサリンのほうが数段いいと思えるような表情をエイミー・アダムスやルーニー・マーラーが見せていたうえでのリアリティだったのだから、大したものだ。それなのに最終的には、リアルのほうに軍配を揚げたかのような結末は、ちょっと常識におもねった感があって残念だったが、なかなかの作品だ。

 また、ホテル・ルワンダでの報道カメラマンが印象深かったホアキン・フェニックスの演技が素晴らしくて、孤独と不安を内に抱え込んで、どう人と関わっていけばいいのか分からなくて心許ないままに、自身から目を逸らしている大の大人の思春期をとても繊細に演じていたように思う。OS設定に際して、「あなたは社交的ですか」と問われて、答えるオープニングシークエンスでの風情からして見事なものだった。






推薦テクスト:「映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20140706
推薦テクスト:「TAOさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?owner_id=3700229&id=1929924998
by ヤマ

'14. 9.14. TOHOシネマズ1



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