『笑の大学』
監督 星 護


 武力・財力と近頃は、臆面もなく力の論理一辺倒に流れることを恬として恥じないどころか誇示することに、賞賛と憧憬の眼差しを送ったり追従したりするのが、むしろ当たり前になっているから、この作品に描かれたような痛快さを備えた物語を見せてもらえると、ちょっとした気概すら感じられたりしてくる。殊に時代設定が日中戦争下、昭和15年ともなれば、尚のことだ。「柔よく剛を制する」というか太極拳的美学というか、唯々諾々と従っているように見えながら決してそうではなくて、知力と才と努力で、より自身のアドバンテージを獲得するうえに、いつの間にか相手自体を図らずして取り込む成果を得てしまう物語だ。チラシによれば、モデルとなった実在の人物がいるようだが、そのエノケン一座「笑の王国」の座付作家たる菊谷栄にしろ、先頃リメイク作品を観たばかりの『丹下左膳余話 百萬両の壺』『人情紙風船』を遺して戦場に散った映画監督の山中貞雄にしろ、今もってこうして追悼されるに足る才能が戦争で失われているのは、何とも愚かしく情けないことだ。

 ほぼ全編、検閲官 向坂睦男(役所広司)と喜劇作家 椿一(稲垣吾郎)のスリリングでコミカルなやり取りに終始するのだが、粘り強く礼儀正しい二人の人物造形に、品性とともに軽妙な可笑しさが感じられ、大いに楽しんだ。映画のエンドロールを観ていると、本編には使わなかったシーンがたっぷりあったことが窺える。映画化する際に、舞台では見せていない場面を映画では見せることで舞台劇の単純な映像作品化を脱しようとした挙げ句、結局、舞台同様の室内劇一辺倒に編集することを選択したのか、あるいはハナから映画でも室内劇で勝負するつもりでいて、あくまでエンドロール用に撮るという贅沢をしたのか、いずれも考えられるところだ。前者であれば、編集に際しての作り手の勇気と英断に敬意を覚えるし、後者であれば、あのエンドロールこそ舞台劇ではやれない映画ならではの膨らませ方とも言えるわけで、気が利いていると思う。原作のみならず脚本も三谷幸喜自身が手掛けているので、おそらくは後者ではないかという気がするのだが、映画の脚本に改稿する際に原作者自身も迷ったのではないか。

 それにしても、検閲官と喜劇作家を演じていた二人がよく活きていたように感じる。役所広司は、相変わらずの巧さと幅の広さを遺憾なく発揮し、稲垣吾郎は、出色の芝居巧者と相対勝負をして引けを取らず食い下がったのだから、大健闘だという気がする。椿一のほうが、より台詞自体に支えられる度合いが高く、向坂睦男のほうが演技力を要する役処であったようには感じられるが、それでも立派なものだ。“猿股失敬”のトホホぶりを検閲官自身に演じさせる運びを役所広司は実に巧く演じていたし、その“猿股失敬”ぶり自体も大したものだった。

 脚本の才気が突出することなく、むしろ演技の充実を感じさせてくれる形での映画化を果たし得たことが、この作品の充実に繋がっているのは疑いないところで、そこのところを監督が見誤ることなく作り上げている点に感心した。台詞の運びとテンポ、リズムが実に重要なわけで、演出と編集に際して入念にチェックしたことが窺われる佳作だったように思う。また、この映画を観ていると、作り手がいかにも喜劇を愛していることが率直に伝わってくるのだが、それが先人へのリスペクトの部分も含めて、いささかお行儀よすぎるように感じられなくもないにも関わらず、ある種しみじみとした興趣を残していく。そこに、やはり抜きがたい原作・脚本の才気というものを感じないではいられなかった。




推薦テクスト:「シネマの孤独」より
http://homepage1.nifty.com/sudara/kansou8.htm#waraino
推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました」より
http://yamasita-tyouba.sakura.ne.jp/cinemaindex/2004wacinemaindex.html#anchor001198
推薦テクスト:「神宮寺表参道映画館」より
http://www.j-kinema.com/rs200411.htm#warai
推薦テクスト:「シネマ・チリペーパー」より
http://homepage3.nifty.com/ccp/hihyou/warai.html
by ヤマ

'04.12. 1. TOHOシネマズ2
      



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