『少年H』
監督 降旗康男


ヤマのMixi日記 2013年09月01日17:12

 十五年前のベストセラー小説である原作を、今のタイミングで映画化していることの意味について大いに支持を表明したくなった。

 戦時中、表立っての不服従を何ら表明せずに、自身の意思を堂々と表明したがる妻や息子に目立たぬようにとむしろ諌めつつ、後の日本国憲法に言う“良心の自由”というものを体現する姿を家族に見せることで、少年H(吉岡竜輝)の敬愛する父親たり得ていた盛夫(水谷豊)が戦後空ろになっていた場面に、彼の個性のホンモノ感が現れていて、その後の「くよくよするのはもう止めだ」との立ち直り共々、実に誠実な人柄に強い感銘を受けた。

 “歴史と呼ぶには近い時代”などとは言ってられない状況になりつつある今、昨日観た『タイムスクープハンター』のコンセプトにあるような“名もなき人々”の視点から見直す歴史の持つ意味と価値を改めて認識させてくれるような作品だったように思う。

 妹尾家の人々は、名もなき人々ながら決して“普通の人々”ではなく、当時においては、破格とも言えるようなリベラリズムを体現していたが、それを形成するのは、一に係って“視界の広さと自ら考える力の獲得”だと改めて思った。そして、その根底にあるのは、幼児期には誰しもが持っている“何故”という自身の抱く疑問に誠実であり続ける生き方なのだろう。

 少年Hは、まことに立派な父親を得たものだ。原作小説は、長男が十代の時分に上下2巻の文庫本を書棚に蓄えていて、いまだに我が家に残っているのだが、僕自身は未読だ。妹である娘は、兄のを借りて読んだけれども、最後までは読み通してない気がするとのことだった。

 今回、映画化作品を観て、気に留めた場面を原作に当たってみたが、映画化作品で友人からしょっちゅう“Hは、いつも一言多い”と言われていたとおり、かなりの饒舌さだ。それが持ち味でもあり、少々疵にもなっているとの印象だが、映画化に際し、原作のエッセンス以上のものを抽出し、エピソードを簡潔化している脚本に大いに感心させられた。



コメント

2013年09月01日 18:37
(北京波さん)
 同感ですね。
 古沢良太のシナリオは中盤からラストにかけて特にすばらしく、降旗の最近お目にかかったことのないフィクスでじっくり演技させる演出が懐かしい。
 伊藤蘭の関西弁は本当に上手い。
 銃後の市民生活を描いて、ジョン・ブーアマンの『戦場の小さな天使たち』['87]に匹敵すると思います。


2013年09月01日 20:39
(ケイケイさん)
 私は原作読んでます。
 お父さんは、確か脚が悪かったんじゃないかなぁ。
 お母さんは、そんなお父さんにいやいや嫁いできたけど、信仰に出会って明るくなったから、お父さんはええと思っているねん、と言う会話が、息子と交わされていた記憶があります。幼い子供に対しても、常に尊重と対等で接していて、当時としては珍しいお父さんだなと、そこは強く覚えています。

 妹も斜視だったような。
 「あんたも自分の妹の事、”ひんがらめ”と言われたら、嫌やろ?」と、友人の悪口を言った息子を諌めたお母さんの言葉も、当たり前なんですけど愛情深く感じて、印象深かった覚えがあります。

 後は、糊を増やして、友人に売って小遣い稼ぎするんですが、アイディアはお父さんが出した事(笑)。

 尊重して対等に接していても、子供は親を敬い、親は子をしっかり守り。
 そういう感覚は、映画でも生きていましたか?


2013年09月01日 23:02
ヤマ(管理人)
 ◎ようこそ、北京波さん、
 最後の独り立ちのエピソードなど、かなり色合いを変えてますよね、同じくフェニックスの絵は登場させても。
 そんな古沢脚本に唸るとともに、いかにもALWAYS 三丁目の夕日っぽいセットで立ち現われた画面から、そういう趣向かと思わされた作品を、なかなか骨のある落ち着いたドラマに仕立てあげていたのは、ご指摘のとおり降旗演出だったと僕も思わされました。
 シリアスな社会派ドラマにはしない点も含め、古沢・降旗の組み合わせが非常に活きているように感じました。


◎ようこそ、ケイケイさん、
 盛夫は、年齢と体格のせいで徴兵検査が丙種というだけで、障碍者ではありませんでした。消防団員になって公務に就いていましたし、脚に不都合はなかったんじゃないでしょうか。
 信仰の問題については、敬虔なクリスチャンゆえに現人神を含め、他の神を否定する妻(伊藤蘭)に対し、人がそれぞれの思いで信じているものに対して、自分の信じる神以外を邪教などと言って認めないのは、立場変われば自分の信仰を邪教だとされるのと同じで、僕は感心できない、というようなことを言っていた場面が印象に残っています。
 娘の斜視というのも映画にはなかったように思いますが、そこで引用されているような台詞が宗教問題に転じられる形で、よりアクチュアルな意味合いを以て再構成されていたようですね。やるなぁ、古沢!(拍手)
 糊を増やしての商売っていうのも映画にはありませんでした。ですが、尊重して対等に接していても、子供は親を敬い、親は子をしっかり守り、という感覚は、十二分以上に映画に生かされていたように思います。

 ちらりと原作を読んだなかで窺えた少年Hの賢しらぶりが、映画化作品ではかなり緩和されているような気がします。おそらく原作よりも映画のほうが出来がいいような気がしていますよ(笑)。せっかく長男が残していってくれているので、そのうち読むことにしようと思っているところです。


2013年09月02日 19:00
(北京波さん)
 原作は読んだことがないので、果たして創作かどうかは分からないのですが、父親がHに「人がどんな風にふるまったか、よく見ておけ」という意は、山本薩夫『戦争と人間 第1部運命の序曲』でアカで捕まった兄(伊藤孝雄)が弟・標耕平(長じて山本圭)に「いいか、そいつがどんな物言いをして、どんなものを食っているか、よく見るんだ。それを確かめるまで信用するな」というシーンを思い出したんですが、ヤマさんはどう思われます?


2013年09月02日 21:22
ヤマ(管理人)
 『戦争と人間』を僕が観たのは、十代の時分なんですが、言われてみれば、確かにそのような場面があった気がします。
 それが製作された戦後の時点からすると、いかに虚偽情報に塗り固められた世論操作があったかは既に一般にも露わにされてましたし、戦時中でも庶民と雖も一部の炯眼の人々、或いは少なからぬ人々の本音の実感においては、表立って言われていることの胡散臭さについての認識はあったのかもしれないというふうに感じています。

 ちなみに原作において、ご指摘の箇所は、十二月八日の開戦の日の第一夕刊と第二夕刊という二つの版による特別号を話題にした親子の会話のなかで出てきます。
 Hは、こんなことをいうお父ちゃんが心配になった。『そんなこと人に聞かれたらえらいこっちゃ。ぼくより、お父ちゃんこそ気をつけてよ』『気をつけとるよ。そやから、お母ちゃんもシゲさんもおらんときにいうたんや。なんで、あんただけに話すかいうと、これからいろんなことが起こるのを自分の目でしっかり見ときよ、といいたいからや。クリスチャンへの弾圧もきつうなると思う。自分がしっかりしとかなんだら、潰されてしまうよ。この戦争が終ったとき、恥ずかしい人間になっとったらあかん。いろいろ我慢せなならんやろうけど、我慢する理由を知ってたら我慢できるからな』 Hは、父親のいつもと違う目付きと言葉を聞きながら、これはお父ちゃんの遺言やないやろうなと心配になった。(講談社文庫上巻P298)となっています。

 ケイケイさんへのレスにて触れた部分はあのなあ、他の人が信じている宗教を邪宗教やいうとったら、他の人からキリスト教は邪宗教やいわれても文句いえへんよ。日本人はたいてい神社へ行って、それぞれ自分の好きな神様にお参りしてるんやから、それも認めんと…(同上P199)となってました。

 まだ、きちんと読んだわけではありませんが、僕がHの父親の言葉として原作中で、とりわけ感心したのは、Hがまるで兵隊に行くのを待ってて喜んでるようなことを書いてるけど、これはウソや!ぼくは“赤紙が来た!”といって喜んでた人を、一人も見たことがないよと言ったことに対して中にはほんまに兵隊になって戦場に行くのを待ってた人がおるかもわからんよ。みんながみんな、赤紙を待ってるとは思わんけどな。人はいろいろやから…とたしなめ、実際に近所の兄さんの出征のときに目撃したときの小母さんとのやりとりを持ち出したことに対して小母さんや家族の者は、お兄さんを兵隊に採られたくないし、戦死せずに無事に帰ってきてほしいと思ってるのは本当の気持ちや。それはあんたも見てたとおりやと思う。それはお兄さんにもようわかってるんや。わかってるけど『お国のために命を捧げるのは男の務めや』というお兄さんが思いつめとる精神は変えられん。それをお母さんにいうと悲しむから黙っていたんやろう。お兄さんも悩んだけど、出征する日にハッキリいうてしもうたんやと思う。木型屋のお兄さんは、一人前の男になったことを、自分にもみんなにも宣言したかったのかもわからん。赤紙が来た以上は死ぬことも覚悟せんならんからな。『お国のために命を捧げる』ということで、母親にもその覚悟をさせたかったんやないのかな。若い人は純粋やからなあ…(同書P285~289)と説いている場面でした。

 是非を問題にするのではなく、“自分の目でしっかり見る”ということを、かようなレベルの高さで子供に提示して見せられる父親というのは、そうそういるものではないと敬服した次第です。


2013年09月02日 22:30
(北京波さん)
 詳しく説明していただいて、ありがとうございました。


2013年09月03日 00:57
ヤマ(管理人)
 こちらこそ、要点を原典に当たる勢いをいただき、感謝しています。
 古沢脚本では「この戦争が終ったとき、恥ずかしい人間になっとったらあかん。」の台詞は、スパイ容疑で盛夫が取り調べられたときに、息巻いて犯人探しをしようとしたHに対して、そんなつまらんことはせんときっていう制止のなかで使われていましたよね? でも、原作では、スパイ容疑の話は、このセリフの登場よりも早いのです。古沢脚本の巧さに痺れました。

 近ごろ流行らしい「やられたら倍返し」などと違って、品格があります。幼時の戯れにおいて「倍返し」だの「3倍返し」だのという捨て台詞は、僕もたびたび使っていた記憶があるのですが、大人が口にするのは、恥ずかしい言葉だという感覚が僕のなかにはあります。それが流行り言葉になるのだから、社会の幼児化は留まるところを知らない勢いのような気がして、少々萎えてきちゃっています(苦笑)。


2013年09月03日 12:10
(北京波さん)
 大人が口にするには、恥ずかしい言葉だという感覚・・・この思いは年々強くなりますね。そういう見識は大変重要で、ボクも大切にしたいと思っています。大人は自分の言葉を持ち、駆使すべきで、年々責任を蔑ろにする言動が、いい大人に増えてきました。ボクが旧い映画を好んで見ているのは、その中に今は死に絶えた矜恃や、節度、気概が映っているからです。

 『少年H』は小栗旬や早乙女太一のエピソードにはいささか・・・でしたが、一家の会話が素晴らしい。その立ち居振る舞いが清潔な美しさに溢れてます。


2013年09月03日 20:28
ヤマ(管理人)
 同感です。
 やられたらやり返すといった対応は未熟な子供のもので、単純な仕返しではなく、何故そういうことが起こるのか、再び起こらないようにするにはどうすればいいのか、起こったことへの対処は何が最も適切なのか、そういったことを導く知恵を身に付けることが成熟だと、子供の喧嘩の場面で、親や教師が諭すのが大人の態度なのだと我々世代は、見て育っていますから、いい大人が「やられたら倍返し」だなんて本当に知性の欠片も窺えない恥ずかしいセリフのように聞こえるんでしょう。

 妹尾一家の会話が素晴らしいのは、原作でもどうやら同じようです。上にも書きましたが、「少年Hは、まことに立派な父親を得たものだ」と改めて思いますね。ご賛同ありがとうございました。






参照テクスト:『少年H【上・下】』原作小説読書感想文


推薦テクスト:「北京波さんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1910703887&owner_id=1144031
編集採録 by ヤマ

'13. 9. 1. TOHOシネマズ2



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