『王になった男』(Masquerade)
監督 チュ・チャンミン


 シェークスピアの没年で始まった本作は、いかにも彼の戯曲に出てきそうな箴言にも思える“隠すべきことは、残すべからず”という宮廷史の秘事を描いたものらしい。近頃は日本でも信長が女性だったなどという作品があるのだから、秀吉の朝鮮出兵で武功をあげた後に帝位に就いたらしい光海君(イ・ビョンホン)にまつわる影武者物語があっても何ら異とするところはなく、むしろ何処か見慣れた些か陳腐とさえ言える物語をここまで見せてくれれば、大したものじゃないかと快哉をあげた。

 宮廷内の権力闘争に敗れたときの定番とも言える“謀反の嫌疑”を掛けられた王妃の兄ユ・ジョンホ(キム・ハクチュン)の台詞にあったように、かつては名君だった王が暴君と呼ばれるに至るには、当人に帰すべき責以上に奸臣の存在が大きいような気がする。露骨に奸計を巡らす有力大臣パク・チュンソ(キム・ミョンゴン)以上に、ひたすら王におもねり、その暴走を止められない近習の罪が重いような気がしてならない。

 都承旨ホ・ギュン(リュ・スンリョン)とてその一人であって、パク大臣に眉を顰めつつも、王の命令で影武者として見出した道化師ハソン(イ・ビョンホン)との出会いがなければ、かような挙動に至ることはなかったに違いない。名君を作るのも暴君を作るのも、君主と家臣の相互作用だというのは、暴君として名高いヒトラーやスターリン、アミン、ポル・ポト等のみならず、昨今やたらとメディアを賑わせている金正恩にしても、おそらく当人だけのせいで“観るべき状況が見えなくなるということ”はないように思う。そういう意味で、近習の負うべき役割はとても大きく、彼らが易きに流れることが罪深いのだが、得てして人の世は易きに流れるものだ。

 最後に字幕で知らされた、一年後に謀反を問われて処刑されたのがパク・チュンソではなくホ・ギュンであり、且つ大同法に沿って地主にのみ課税されるようになったことが伝えられたところに、なかなか意味深長で想像力を刺激してくれるものがあったように思う。劇中に、政務においては一歩引いて一歩を得るのが肝要といった話が出てきていたような気がするが、ホ都承旨の処刑も地主にのみ課税をするよう仕組みを変えることのバーターだったのかもしれない。軽妙に見えて、なかなか奥深い作品だったように思う。

 ト武将(キム・イングォン)が疑念を抱く契機が、王がふと歩いたときに使った腰の振り方だったのはともかく、疑念を決定的に深めたのが“労働に携わった節くれだった手”というのが効いていた。トが単に武だけの将ではないからこそ、そして情の人だけでもないからこそ、その最期の場面がグッと引き立つわけだ。宦官のチョ内官(チャン・グァン)からト武将が気付いたかもしれないと告げられたホ都承旨が、彼は真面目すぎるから受け入れられないと思うと評していた不器用さも生きていた。

 そして、人の心を掴む機微というものをイ・ビョンホンが実に巧みに見せてくれていたような気がする。ハソンとホ・ギュンの関係が絶妙で、ト武将が「皆には偽王でも私にとっては本物の王なのだ」と告げるエピソードが意外とよく、王妃中宮(ハン・ヒョジュ)との絡みもなかなかよかった。さすがイ・ビョンホンだ。僕は決して韓ドラ族ではないのだが、JSA以来けっこう贔屓にしていて、『恋愛中毒』でもなかなかいいじゃないかと思った覚えがある。



推薦テクスト:「映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20130225
推薦テクスト:「大倉さんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1893677597&owner_id=1471688
by ヤマ

'13. 4.13. TOHOシネマズ3



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