『喜劇・女は男のふるさとヨ』['71]
監督 森崎東


 映画のタイトルからして最早いまの時代では通用しなくなっているアナクロ色が濃いのだが、主題的にもこのような“損得よりも心意気”を謳いあげるような作品は、現在の日本社会を舞台にしてはもう撮ることができなくなっているように感じた。格差社会の進展とともに世の中の酷薄化が進むなかでは、ましてやそれを世間のはみ出し者に託す形で描くことなど、とうてい叶わなくなっているような気がする。

 受験に失敗して自殺を図りかねない高校生を思い止まらせる方法として、女の体を教えてやること以外に思いつかなかったからと公園で行った青姦の現行犯で捕まり、あまつさえ売春容疑を掛けられていたストリッパー星子(緑魔子)の純情の擁護のために、警察に食って掛かる竜子(中村メイコ)が素敵だったが、いまどき、星子のこんなエピソード自体が時代錯誤的で成立しそうにない。

 だが思えば、トウさん(森繁久弥)の口からジャクリーン・オナシスの喩が出てくるような、ケチンボ金持ちの年寄り(伴淳三郎)との五十歳差の格差婚の祝いの席に群がってきた星子の親族一同の姿や、万博用地の買収で俄か成金になったために一族の親族関係が崩壊したらしい照夫(河原崎長一郎)の家庭事情がネタになっているのは、高度成長期を経て既に“損得よりも心意気”が、現実からは失せかけていたことの証左なのだろう。

 そうは言っても、そのようなメッセージがまだまだ普通に支持されるからこそ、このような物語が大衆娯楽作品として成立するのであり、今やそれすら映画作品として成立しそうにない状況になってきているような気がする。虚構とはいえ『ヒトリマケ』['08]や『カイジ』['09]、『インシテミル』['10]といったような作品の設定がエンタテイメントとして若い世代に向けて送り出されるような世の中になるなかで、本作など冷笑しか買わなくなっているとしたら、余りにも寂しい気がするのだが、そんな懸念がなくもない。

 ストリップ嬢たちからカアさんと呼ばれていた竜子の言っていた「99%が嘘でも肝心の1%が本当なら信じられるけど、その肝心の1%が嘘だと、ほかの99%が本当だったとしても一緒にやってけないんだよ」との言葉は、果たして今なお普遍性を保っているのだろうか。肝心些少の区別を自身の価値観や美意識できちんと付けられるようになっている普通の大人が、そもそも圧倒的少数になっているような気がしてならない。

 会場にいた顔見知りからは本作が森崎監督のベストとの声も出ていたが、僕は二年前に観た喜劇 女は度胸['69]のほうが好みだ。倍賞美津子がこちらのほうが良かった。もっとも本作と同じストリッパー役という点では生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言['85]よりも本作がいいように思った。
by ヤマ

'13. 2.24. 竜馬の生まれたまち記念館



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