『天国の門』(Heaven's Gate)['80]
監督 マイケル・チミノ


 公開時に観た149分の短縮版については殆ど記憶がなかったのだが、'82. 1.13.の日記帳には「話題作ではあったが、まあ標準というところか。確かにスケールの大きさはあったが、人物描写に深みがない。荒い。五時間余というオリジナル版では、もう少しましかもしれぬ。画面は美しいのだろうが、なにせ劇場のスクリーンと映写機がお粗末だから、残念無念。」と記してあった。当時はまだ23歳で然したる作品数を観るには至っていなかったから、格段に優れた作品でないと堪能できない未熟さだったことが偲ばれる。

 しかし、55歳になってマイケル・チミノ監修のもと、ディレクターズカット版として公開された216分のデジタル修復完全版を観てみると「いやぁ、さすが舞踏会好きのチミノだ!」と、やたらとくるくる回る場面を観ているだけでも笑えて楽しめるようになっていることに、少々自己満足を覚えた。

 オープニングの1870年(明治3年)のハーバード大学の卒業時に、学長と思しき人物から“空騒ぎ”と揶揄されてもいた祝祭ぶりの顕著な屋外でのワルツに乗せた壮大な円舞場面にしても、二十年後のワイオミング州にて“天国の門”と名付けられている集会場兼飲み屋のようなホールでのローラースケートによる舞踏会場面にしても、ディア・ハンター['78]の結婚式場面並みに、延々と繰り広げられる。

 だが、踊りの場面でしつこく廻らせるのはまだしも、資本家のフランク・カントン(サム・ウォーターストン)率いる大牧場主協会の雇った武装集団とジョン・ブリッジス(ジェフ・ブリッジス)の率いた東欧移民団による戦闘場面さえ、無駄にくるくる廻らせているのを観て流石に呆れた。ジム(クリス・クリストファーソン)が加わって後のローマ軍風の戦車攻撃の場面といい、絵柄的には派手で見映えがするものの迫真性がまるで感じられず漫画的ですらあったように思う。

 また物語のほうも、随分と壊れているトンデモ脚本と言うほかなく、大統領の全権委任を受けていると強弁する資本家カントンを撃ち殺したジムが、十三年後の1903年とはいえ、優雅な船旅を過ごしているエンディングは、いったい何なのだろう。ウォルコット少佐(ロニー・ホーキンス)を引き入れながら、援軍要請に打って出るまで騎兵隊が参加せずに50人の傭兵ガンマンのみで戦闘を始めようとしていたのは、東欧移民団による反撃など想定外ということなのだろうか。そもそも彼がエラ(イザベル・ユペール)を断念せざるを得なくなった、カントンによる二人への襲撃が何のためのものか全く判らない点と合わせて、本作の致命的な欠点だと思った。

 とはいえ、映画としては、やはりなかなか凄い。水彩画のような淡さで再現される開拓時代の西部の風景の雄大な美しさと、いずれの場面においても贅沢三昧な人海術で画面を覆うボリューム感、当時27歳の瑞々しくもきりっとしたイザベラ・ユペールの素晴らしさに圧倒された。なかでも惜しみなく晒したイザベラの裸身の肌の色が眩しく、彼女がネイサン・D・チャンピオン(クリストファー・ウォーケン)とジェームズ・エイブリル(クリス・クリストファーソン)との間で見せる表情のニュアンスの豊かさと悩ましさには、とりわけ魅了された。

 216分は確かに少々長すぎるし、ジョンソン郡事件の顛末として釈然としない部分が多すぎるけれども、西部開拓時代当時からの“アメリカン・スピリット”の神髄が今なお世界を席巻している強欲資本主義のためのならず者国家であることを、レーガン政権発足前に痛烈に描き出している点には瞠目させられた。

 社会のルールなどというものは、それを作ることのできる側が恣意的に定めたものであって、乱痴気騒ぎに興じる最高学府出身のインテリたちに、学長が祝辞で述べた“教養の感化による社会変革”など担えるはずもなく、答辞で「今でも上出来だ」とのシニカルな卒業生代表の弁を振るった御行儀の悪い優等生ウィリアム(ジョン・ハート)は、二十年後のジョンソン郡での事件でも傍観するままに落命し、ジムを同窓会から追放したカントンは横暴のルール作りのほうに勤しみ、その暴虐に抗おうとしたジムも結局は無為なるままに恋人を死なせただけで、今なおアメリカに思索も瞑想も根付いてはいないということなのだろう。こんな作品がアメリカで興行的に支持されるはずがないことはよく判った。




推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/special/pu1312.html
by ヤマ

'13.12.22. あたご劇場



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