『屋根裏部屋のマリアたち』(Les femmes du 6eme etage)
監督 フィリップ・ル・ゲイ


 原題『6階の女たち』を『屋根裏部屋のマリアたち』と訳した邦題に感心した。マリアという名には“聖母”のイメージがあるが、ジャン=ルイ(ファブリス・ルキーニ)が所有し暮らすアパルトメントの6階に住むメイドのスペイン女性たちに対して、誰もがそれを感じられるものではなかろう。だが、彼にとっては紛れもなく、彼女たちは己が人生に歓びと活力を与えてくれた聖母たちなのだ。その屋根裏部屋のマリアたちのなかでも格別の存在で、実際の名前もマリアだった女性(ナタリア・ベルベケ)が未婚の母であったりするのは、お約束とも言うべきことかもしれない。

 フランス人もラテン系だから解放的なのだが、スペイン人と比べれば、その陽気さと明るさで、とうてい及ばない。1962年当時、スペインはフランコ独裁政権下にあって、内戦の傷痕も生々しく、高度成長期の夜明け前のような時点ではまだまだ貧しくて、多くの人がフランスに出稼ぎに来ていたのだろうが、経済的に貧しく政治的に不自由な彼らのほうが明るく逞しく生き生きとしている姿に、ジャン=ルイが感化されていく様子に納得感があった。

 さしたる不足を何も感じることなく、安定したルーティーンの日々を過ごしていく生活というのは、彼のような資産家の身の上ではないながらも、ある意味、我が境遇とも重なるので、内心穏やかならざるものを感じつつ、何らの刺激も歓びもない日々ではないことの幸いを思った。

 やはり自由のなさと退屈というのはいけない。人を生ける屍へと追いやる代物のようだ。

 それにしても、妻シュザンヌ(サンドリーヌ・キベルラン)の許しを得て浴室のシャワーを使うマリアの裸身を盗み観て、かねてより惹かれる想いの一気に昂ったものを彼女には向けず、妻に求め、決して自分からマリアと一線を越えようとはしない節度を守っていたジャン=ルイに、家庭も仕事も投げ打つだけの火を点けたマリアの行動は、何だったのだろう。男の側からすれば、気紛れでは片付けられない楔が打ち込まれてしまう罪な出来事だ。先ごろ観たばかりの愛する人で、エリザベスがポールの前から姿を消したのとはまた違う女性の不可思議が、とても印象深く映ってきた。

 一方、シュザンヌは、下界ならぬ下の階から、天上ならぬ6階へと“居場所”を求めて移り住んだ夫の姿から、自分たちが見失っていたものへの気付きを得るくらいには聡明な妻だった。それなのに、彼女からのやり直しの申し出を受け入れられないだけの熱情に駆り立てられると、もはや家族うんぬんではなくなるわけだ。ラテン系個人主義の強靭さというものを、いささか見せ付けられたような気もしなくはない。

 だが、シュザンヌは離婚後、ジャン=ルイよりも先に新たなパートナーを見つけ、義母に我慢を強いられるような玉の輿婚とは異なる再生を果たしていたようだから、強いてやり直しに拘るべきものでもないということなのだろう。子供には子供の人生があるわけで、既に寄宿舎生活に入っているのだから、日常生活そのものには大きな支障があるわけではない。簡単に離婚のできるフランスと、そうはできないスペインとの対照にも触れられていた。

 とはいえ、誰にでもそんなふうな人生再生の道が用意されているものではない。だが、三年のときを経て、遂に見つけ出したマリアの満面の笑みを映し出したラストショットを観ていると、素直にジャン=ルイを祝福してやりたい気分になった。

 マリアの叔母コンセプシオン(カルメン・マウラ)の肝っ玉叔母さんぶりと、その夫が「うちの女房には、愛というものが分っちゃいない」とジャン=ルイに囁く台詞がなかなかよかった。昨今、男のほうにそういう台詞を言わせる作品にはとんとお目にかかったことがないような気がして、何だか痛快だった。




参照テクスト:『屋根裏部屋のマリアたち』をめぐる往復書簡編集採録

推薦テクスト:「TAOさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1869599989&owner_id=3700229
by ヤマ

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