『ソハの地下水道』(In Darkness)
監督 アグニェシュカ・ホランド


 匿っていたユダヤ人たちをようやく地下水道から地上に解放し、自らも戦々恐々としながら支援することから解放された歓びに妻ワンダ(キンガ・プライス)の手作りケーキを振る舞いながら、「俺のユダヤ人たちだぞ、俺のユダヤ人たちだぞ」と誇らしげにはしゃいでいるソハ(ロベルト・ヴィェンツキェヴィチ)の微笑ましいまでの凡庸さに、改めて彼の成し遂げた偉業の凄さが奇跡のように沁みてきた。

 基本的には前日に観た『オズ はじまりの戦い』と同じような話だが、こちらはファンタジーではなく、14ヶ月間地下水道で暮らし生き延びた少女が残したとの実話を元にしているナチス支配下のポーランドでの物語だから、格段に重い。いつものことながらに娯楽性に真っ向から背を向けているようなホランド監督の、しかしながらハズレのない確かな作品づくりに恐れ入った。

 タイトルは「地下水道」などと澄ました表記にせずに「地」の字を取るべきだと思わずにいられないくらい、臭ってきそうなまでの不衛生極まりない汚さがいささか気持ち悪く、長期に渡る潜伏に老若男女のユダヤ人たちが確実に心身ともの健康の悪化を招いている様子が丁寧に描出されていて少々気が滅入った。しかし、彼らが心身の健康を減退させていく悲惨さに反比例するようにソハの善意が形成されていく対照が、感慨を伴った実に奇妙な感覚を誘ってくれる。

 何だか神秘的ですらありながら、妻の顰蹙を買いつつも彼らにコミットしていくソハの姿に、絵空事に感じさせない実感が宿っていて見事だった。白眉は、一日500ズロチの報酬を支払えなくなった彼らに「ただで支援するような男に見られるのは嫌だ。これで皆の眼の前で支払ってくれ」とこっそり金を渡す場面だろう。ナチスに引き渡して一度の報奨金を貰うより隠匿のリスクはあっても富裕な彼らから金を引き出し続けるほうが得策だとの動機で始めた“ビジネス”が善意の形成を経て、ほとんど聖人の域に彼を導いた感のある瞬間だったような気がする。そして、その高みに至ってもなお、解放の日には「俺のユダヤ人たちだぞ」とはしゃぐ人間味を捉えて放さない作り手の眼差しが大したものだと思った。こういった主題の作品ではあまり触れられることのない“人の営みとしての性”の描写も多々あって、さすがはアグニェシュカ作品だと大いに感心させられた。生き延びた人たちも支援した人たちも決して特別な人たちではなく、ごくごく普通の人たちが起した奇跡なのだということなのだろう。ソハだけでなく、ユダヤ人たちのほうの変化の描出も行き届いていたように思う。

 それにしても、人の善良を育み開花させるものというのは、何なのだろう。翻って邪悪にしても同じことなのだが、ちょっとした行き掛かりのなかで、何がどう反応していくのかという“人間同士の関係性によって生じること”であって、凡そ善人と悪人がいて起こるものではないということなのだろうが、本当に不可思議なものだ。一口にする善悪二元論の“判り易さ”に堕することのない上質の作品で、判り易さなどという浅薄なものに不当に価値付与がされている昨今の風潮にあって、短絡的な厳罰と顕彰を求めがちな心性を戒め得る映画なのだが、いかんせんマスメディアなどのそういった視線からは一顧だにされないでいるのだろう。

 本作のソハにしても、『オズ はじまりの戦い』のオスカーにしても、最初から善良だったわけではなく、どちらも欲得のほうが先に立っていた。狡さは働いていても悪とまでは言えないのかもしれないが、詐欺的であったり窃盗であったりしていたことは間違いない。しかし、最終的には二人とも人々を救う途轍もない大活躍をするわけで、そういう摩訶不思議で奇跡的なことが起こるのが人間なのだろう。だからこそ、人間というものは面白いし、そこに人類の可能性も秘められているような気にさせてくれるのだと思う。ソハ夫妻に限らず6000人もの人々がユダヤ人支援で表彰されたというのだから、なかなか侮れないものだ。

 ワンダを演じていたのはアンナと過ごした4日間のアンナを演じたキンガ・プライスだったが、一段と豊満さが増していて実に頼もしかった。ワンダの偏見のない素朴な眼差しと自身の足元を常に観続けている安定感が彼女の体形に宿っていたように思う。かゆいかゆいと亭主にじゃれる愛嬌も、亭主が身の丈を超えた所業に及んでいる不安も、何の衒いもなく表出し、臨界点を超えたと思って娘を連れて緊急避難しつつも、やっぱり戻ってきちゃったと亭主を支える内助ぶりが神々しかった。洗濯物干し作業の似合う彼女が出て行ったままになっていれば、ソハは14ヶ月持ちこたえられなかった気がしてならない。




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by ヤマ

'13. 3.15. 美術館ホール



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