『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [前編]始まりの物語&[後編]永遠の物語
総監督 新房昭之


 フリーパスを持っていなかったら、きっと観送ったに違いない作品ながら、思いのほか面白くて驚いた。『エヴァンゲリオン』の碇シンジとちょうど同じように、主人公の鹿目まどか(声:悠木碧)は、自信がなくてグジグジした、優しいだけが取り得のようなじれったいキャラなのだが、本作で描き出されている正邪や善悪のグラデュエーションの面白さは、同日に観た『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』など、比較にならないと思った。

 前編では特に、美樹さやか(声:喜多村英梨)の人物造形が利いていたように思う。他の魔法少女の名前も暁美ほむら(声:斎藤千和)、巴マミ(声:水橋かおり)、さくら杏子(声:野中藍)と、二つの女性名を合わせて姓名にしているような感じがあるが、おそらく女性というものの性格の多重人格性というか複雑さを示しているのだろう。同時に、善意と悪意の混在というか、容易に転換する不確実性のようなものが女性的気まぐれ感としてだけでなく、感情の強さ豊かさゆえのものとして捉えられているように感じられるところに唸らされた。

 善意と悪意が混在し容易に変転するからこそ、人間なのであり、そのエネルギーというものが即ち感情というわけだ。どちらか一方に塗り込められた「悪人」や「善人」などが決して存在しないのは、感情のない人間が存在しないのと同じく紛れようのない事実なのだという人間観が窺えたように思う。

 さればこそ、配置されていたのがキュゥべえ(声:加藤英美里)なのだろう。混在し変転する不確実性とは対照的な、抑揚のないフラット感で善意も悪意もない形で、ビジネスライクに約款説明のような条件提示と共に合意確認を重ねたうえでの“契約”によって、世界の救済を求めていく姿というものが抜群に利いていた。そして、ちょうど本作開始前の予告編上映で流れていた実写版『妖怪人間ベム』での台詞「誰かを救うということは誰かが犠牲になるということなんだ」さながらに、まるでメフィストフェレスに魂を売り渡すようにして魔法少女となり、魔女との戦いに勤しむ少女たちの姿には、ヒロイックな明るさが全くなかったように思う。

 まどかの母親が娘に語っていたのは、マイク・リー監督の映画秘密と嘘や土田英生の芝居初夜と蓮根にて示されてもいたような“楽観的に過ぎる真善美”の拒否であり、持つべきあるべき“大人と子供の決定的な違い”の示唆だったわけだが、それが即ち魔女と魔法少女との関係をも示していたことに気づかされたときには、思わず「やられた」と心地よいパンチを食らったような気がした。道理で、魔女との戦いに勤しむ少女たちの姿に明るさがなかったわけだ。そこには母娘の相克イメージも投影されていたのかもしれないなどと思った。また、魔女の結界内に入ると東欧風アートアニメを思わせるイメージ世界になる“手作りのシュール感”が妙に印象深かった。魔女と魔法少女との関係を知ると、ますます意味深長さの増してくるイメージだと思った。

 そんな前編を観て、楽しみにしていた後編は、予想を上回るスケールで構築された世界観の確かさに圧倒されたように思う。まどかがエヴァの碇シンジと余りにも似たキャラであることに奇遇を覚えていたが、全編を最後まで観ると、魔女なき世界の魔獣がもろに“使徒”に見えてきて、その確信的挑発に快哉を挙げた。それとともに、後編におけるまどかというキャラの大化けに、そして、ほむらとの深い因縁に、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』でアスカ・ラングレー(声:宮村優子)から「ばかシンジ」と繰り返し呼ばれていた碇少年など及びもつかない祈りの深さと物語世界のスケールを感じ、大いに感銘を受けた。

 前編から一貫して淡々と、善とも悪とも言える合理的なエネルギー回収を続けていたキュゥべえのようなキャラクターが造形されるのは、旧世代からすると、まるで宇宙人としか言いようのないキュゥべえのような若者が少なからず現れてきているように感じられているからなのだろう。近く公開されるらしい『脳男』のような映画が作られるのも、同様の問題意識からだという気がする。だが、そのこと自体は、今に限った話ではなく、世代間ギャップとして、いつの時代においても繰り返し語られていることだ。

 だから、感情に乏しくドライでクールな新世代などという手垢にまみれたフレーズそれ自体は、決して目新しいものではないのだが、感情自体をパワーの源として宇宙世界を変えたり維持したりするエネルギーという形で捉えるほどに、“感情”というものが称揚されるようになっていることが目を惹いた。19世紀から20世紀に掛けてが“理性の称揚された時代”だったことに比して顕著な“感情の称揚される時代”が、前世紀あたりから始まっているように感じているが、感情のなかでも、とりわけ欲望が肯定され、身体性に強い関心が向けられた前世紀後半からすると、前編でまどかの母親の言を借りて拒まれていた“形式的な真善美”とは異なる“感情の伴った真善美”の称揚が復活してきているような気がした。もはや肯定するまでもなく肥大しきってしまった欲望社会というものが背景になっているように感じる。

 理性によって真善美を称揚した時代とは異なる“感情による称揚”のほうが時代的要請にも見合っているのだろうし、その媒体として“理性の時代における書物に対置されるべき媒体の最右翼にあるとも言えるアニメーション”によって提示されていることへの納得感も大いにあった。八年前の映画日誌に「90年代が実写劇映画とドキュメンタリー映画の相互乗り入れが際立った時代だったとすれば、00年代が実写映画とアニメーション映画の相互乗り入れの際立つ時代になるのかも」と綴ったが、それ以上に、アニメーションは理性の時代の書物に匹敵する重要な媒体になってきているようだ。

 そして、十代の少女において最も鋭敏かつ膨大とされていた“祈りが絶望から呪いに転嫁するエネルギー”の凄さが圧巻だった。少女から大人に通過してしまっては維持できなくなる真善美としての“無私なる献身としての祈り”こそがまどかの本領だったわけだ。直接的に自身の欲望を満たす願いではなくとも、“己が愛する”幼馴染(さやかの場合)や父(杏子の場合)、友(ほむらの場合)というのは、やはり己が延長であって、まどかの無私なる博愛は次元の違うものだということだろう。

 また、無私ということで言えば、命を賭した献身といえども存在したこと自体までが消え去るものではなく、むしろ死して名を残すというようなことが大いに起こる人類の歴史において、まどかの為した献身こそが真の無私なる献身ということになるのだろう。だが思い返せば、歴史に名を残さずに、そのような献身を果たした人物が偉人たち以上に数多くいるのが人類の歴史の真実だという気もする。その彼らとて、歴史的には無名でも近親者においては強烈な存在感とともに記憶されているはずで、まどかのように実母の記憶からさえも姿を消してしまうほどの無私というのは、破格のものだ。ある意味、神をも超えているような気がする。

 それだけの献身と同化というのは、よほど鋭敏かつ膨大な感情エネルギーによる思い込みの強さがなければ叶わないことで、やはり14歳くらいの少女期ならではという気がした。その掛け替えのなさというのは、キュゥべえならずとも眩しく感じられるところで、ダークサイドへの転換が起こらないことを願わずにいられない。




推薦テクスト: 「なんきんさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1878223401&owner_id=4991935
推薦テクスト:「映画通信」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1914688078&owner_id=1095496
by ヤマ

'12.12.12. TOHOシネマズ4
'12.12.14. TOHOシネマズ3



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