『十三人の刺客』
監督 三池崇史

 パワフルな画面に魅力があって、なかなか面白かった。作り手が“己が領分と自負していると思しきB級テイスト”を喪うまいとしているように感じられた保守性と、重厚な画面やドラマに加えられた演出の派手さとが妙に対照的に感じられて、少々可笑しみが湧いた。

 三ヶ月ほど前に必死剣 鳥刺しを観て、全く以ってサムライというのは、ろくなもんじゃないという印象が残ったと日誌に記したが、本作は直接的にそのことを描いているだけに、最も強く感じたのは、むしろ、まさしく老中の土井利位(平幹二朗)の密命を負って御目付役を解かれた旗本の島田新左衛門(役所広司)の台詞にあった「サムライというのは、厄介なものだ」ということのほうだった。そのうえでは、やはり新左衛門の甥の島田新六郎(山田孝之)、明石藩主の斉韶(稲垣吾郎)、山の民の小弥太(伊勢谷友介)という三人の若者の存在が効いていたように思う。

 本来戦士たるサムライが戦なき世にあって、その本義を戦から宮仕えに置き換えている欺瞞を感じ取り、サムライとしての“生きるよすが”を見出せずに荒んでいた二人に比べ、大自然の生き物と対峙するなかで、生きることに迷いのない小弥太の“生き延びるうえで必要な逞しさ”が、三池作品らしく漫画的なまでに強調されていたように思う。何も人間同士で殺し合いをしなくても、その逞しさは備えられるというわけだ。性力の凄まじさもさることながら、なにせ首を刺し貫かれても死なないタフさなのだから、いくら確かに多量の失血などしてなかったとはいえ、恐れ入る。
 しかし、大事なのは、「サムライのけんかも面白ぇと思ったが、やっぱりつまらん。」と言いながら元の山に還るのではなく、惚れた女と暮らすために新たな山に旅立とうとする小弥太の選択なのであって、それこそは、落合宿での無謀とも言える捨て身の戦の凄惨を経て喝破したものであるという点だろう。まさしく落合宿の戦闘並みに無謀な戦であった太平洋戦争を経験しながらも、戦後半世紀を経て“平和ボケ”などという言葉で挑発され、外交力よりも軍備増強に向かうことを求める昨今の動きに乗せられていると、この宿場での壮絶な殺し合いの100年後に起こったヒロシマ・ナガサキの大惨事を繰り返しかねないというのが、映画の冒頭に文字書きされていたことの意味するところだったのかもしれない。

 明石藩江戸家老の鬼頭半兵衛(市村正親)と新左衛門の関係が赤穂浪士['61](監督 松田定次)に描かれた千坂兵部(市川右太衛門)と大石内蔵助(片岡千恵蔵)の関係に酷似していたのが目を惹いた。さらには、同作での内蔵助と堀田隼人の関係が本作での新左衛門と新六郎に重なる部分も強かったように思う。僕は、本作のオリジナルたる工藤栄一監督作品['63]を観逃しているのだが、そちらのほうでも同じ趣向で『赤穂浪士』を重ねていたのだろうか。

by ヤマ

'10. 9.29. TOHOシネマズ2



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