美術館夏の定期上映会“フレデリック・ワイズマンのすべてA”

(4日目)
『法と秩序』 (Law And Order)['69] 監督 フレデリック・ワイズマン
『アスペン』 (Aspen)['91] 監督 フレデリック・ワイズマン
『メイン州ベルファスト』 (Belfast,Maine)['99] 監督 フレデリック・ワイズマン
(5日目)
『最後の手紙』 (La Derniere Letter)['02] 監督 フレデリック・ワイズマン
『アメリカン・バレエ・シアターの世界』
 (Ballet)['95]
監督 フレデリック・ワイズマン
『パリ・オペラ座のすべて』 (La Danse)['09] 監督 フレデリック・ワイズマン

 昨年11月3日の高知県立美術館十八周年開館記念日から始まった“フレデリック・ワイズマンのすべて”における、全六日間の日程での16作品のうちの6作品を観た。

 作中に出てくるニクソンの演説の一節をタイトルにしていた『法と秩序』では、11月のワイズマン監督の講演のなかでも触れられた“売春容疑の黒人女性の首を本気で締め上げて息絶え絶えにさせている警察官”の場面に圧倒された。事情聴取とも取調べとも告げずに別室に隔離しようとする捜査官に対し身の危険を感じている怯えが窺えた。また、カンザスシティの自分らは三年目でも五百数十ドルなのに、ロスじゃ初任給で七百ドルらしいから移ろうかと言いつつ、凶悪度に思いを馳せて躊躇する警官同士の会話だとか、どうして、こういうナマの場面を撮ることができたのか驚かされるのだが、それについては、監督自身が講演のなかで自分の考えを披露していたことを思い出した。そして、トラブル仲裁や子守に至るまでの警察に係る雑多な用務が、そのような生々しさで映し出されていた。

 同作から二十二年を経た『アスペン』では、先の監督講演でも話のあった“施設”に注目したカメラの持ち込みから、ひとつの街という大きなコミュニティを単位にして、作品を撮っていたように思う。教会での神の話で始まり、神についての話の場面で終えられる本作を観ながら、アメリカ人が祈りや言葉、スピーチを大事にする国民であることを改めて感じた。

 富裕層のウィンターリゾート地として生計を得ている街を捉えた『アスペン』を観て、コミュニティの捉え方を拡大するよりも、初期のように“施設”に絞り込んだ視線のほうを好もしく感じていたら、それから八年後の作品『メイン州ベルファスト』を観て、すっかり唸らされた。スーパーマーケットのシーンが一つの鍵だったような気がする。
 漁師が引き揚げハサミをゴムで止めていた冒頭場面でのロブスターが売られていて、売り場に並んでいたスモークサーモンのパックの工場での製造工程が映し出される。スーパーで見かけた幾人かの人々は、それまでに登場していた住民だったような気がしなくもない。メイン州ベルファストに暮らす様々な人の、様々な時間を生々しく切り取った本作において、作り手の捉えようとしていたものが“営み”であることが鮮やかに立ち上ってくるとともに、街の営みとして捉えた場合、数々の公共施設やファクトリーが重要な要素になることがとても自然に伝わってきた。だから、ワイズマンは長年“施設”にこだわって撮ってきたということなのだろう。
 ソシアルワーカーの仕事ぶりが時間の経過をさりげなく浮き上がらせ、王侯貴族ではなく平民の孤独と苦悩を初めて悲劇として描いたのは、身分社会を否定するニューワールドたるアメリカの文学作品なのだと『白鯨』について誇らしげに教えていた高校教師の授業がなかなかよかった。その授業のなかで触れられていた『セールスマンの死』が、ちょうど市民によるアマチュア演劇の演目としての練習風景が先に捉えられていた場面と呼応するものとして感じられた。
 人口わずか6000人の街らしいのだが、一見、華やぎがあるようにも見えるアスペンよりも、ずっと堂々としているように感じた。そういうなかで最も目を惹いたのは、猟師の罠にかかって仕留められた狐(?)の毛皮剥ぎの映像だったのだが、図らずも“営み”が命を主題にしたものであることを物語っていたような気がする。

 特集企画の五日目は、演劇・バレエといったアートジャンルの3作品だった。

 コメディ・フランセーズの女優カトリーヌ・サミィのために、小説『人生と運命』の一章をワイズマンが脚色したとの『最後の手紙』は、ナチスに占領されたソ連内のユダヤ人ゲットーで、迫り来る処刑の日を前に息子への手紙を口述する老女医を演じる女優の一人芝居を撮り上げた作品だが、いつもならカメラに収めるはずの制作過程や舞台裏を一切排して、老優の芝居そのものを舞台装置もないまま、僅かに照明の陰影に工夫を凝らすだけのリアルタイムでドキュメントした異色作だった。一人芝居をライブではない映像で観ると、女優の流石の名演とワイズマンの力を持ってしても単調さが拭えず、62分という短時間の割に思いのほかキツかった。

 日本公演も果たしたらしいアメリカン・バレエ・シアター(ABT)の練習風景や海外公演をドキュメントした『アメリカン・バレエ・シアターの世界』を観て思ったのは、流石のワイズマンも編集力に衰えを来しているように感じられた冗漫さだった。ショットやカットの切れ味が強いインパクトを残していた初期に比べ、シーンをシークエンスで収めようとする傾向が強くなっていることに気づいた。かつては画面の力のほうを重視して、それを最大限に活かすうえで、場面説明としての分かりにくさに対して非常に潔かったワイズマンが、むしろ場面説明のほうを優先するようになっていると感じた。前日に観た『アスペン』に感じた不満は、コミュニティの捉え方の大小よりも、実は、この編集における潔さの消失による切れ味の劣化だったのかもしれない。何よりも、練習で追っていたバレエシーンと公演で捉えたバレエシーンが対になっていないのが不満だった。公演シーンのほうが長いのは別に構わないのだけれども、練習段階で丁寧に追っていた場面を公演シーンでフォローしていないのは何とも残念だった。

 その十四年後に、今度はABTではなくパリ・オペラ座に材を得て撮った同じ趣向の『パリ・オペラ座のすべて』は、裏方に向けた視線の拡がりやABTのバレエ以上に魅力的だったバレエ自体の力の御蔭もあって、12分短くなっただけとは思えない面白さがあったような気がする。それでも、バレエのコーチがダンサーに指摘している事柄の差異というものが、聴いていても観ていても今一つよくわからないという点は、コーチが違っても決まって指導後には「よくなった、よくなった」と声を掛けていたにもかかわらず、僕にはその差がまるで見当のつかなかったABTの練習光景を観たときと、さして違いはなかったように思う。だから、バレエに明るい人が観ると、両作とも随分と見え方が違ってくるような気がした。



推薦テクスト:「なんきんさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1796852497&owner_id=4991935
by ヤマ

'12. 1.28〜29. 美術館ホール



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