『マイ・バック・ページ』
監督 山下敦弘

 劇中で公開中の映画を示すことによって、いつの時代かを端的に表しているところが、いかにも文芸・映画の評論家である原作者に相応しい作品だった。そして、登場させる作品選択自体が表現行為になっている点が、かつて自主上映活動に携わり、作品選択を一つの表現行為として意識する経験をしたことのある僕には、とても意味深長に響いてきた。

 加えて真夜中のカーボーイで示された '69年から『十九歳の地図』の '79年までの11年間は、僕が小学六年生から大学四年までの歳月に重なり、物語の中心となった'71年に公開されたファイブ・イージー・ピーセスを僕が観たのは、ちょうど本作の沢田雅巳(妻夫木聡)と同じく、僕が社会人になって3~4年くらいの '85年であったし、僕自身が、学生時分にジャーナリストを志望していたこともあるので、いろいろと触発されるものの多い作品となった。

 本作の登場人物たちによって最も言及された映画は『真夜中のカーボーイ』だったが、ジョーを演じたジョン・ボイトへの言及はなく、専ら“とことん貧しく惨めに死んでいったラッツォ”を演じたダスティン・ホフマンに対してだった。中上健次の原作小説を映画化した『十九歳の地図』については台詞では全く触れられずに、作品が示されただけだった。『ファイブ・イージー・ピーセス』に関しては、父親への謝罪の涙を流して泣くボビーを演じたジャック・ニコルソンへの言及だったのだが、『真夜中のカーボーイ』で触れられていたのも「I'm scared… I'm scared…」と泣いていたダスティン・ホフマンについてだった。そういったことからすれば、本作のエンディングが、沢田の不意に見舞われた嗚咽の場面であるのは、映画の構成的には決して不意の出来事ではなく、必然だったと言えるのかもしれない。

 そして、映画の導入部で映し出された東大闘争における安田講堂での有名な落書連帯を求めて孤立を恐れず 力及ばずして倒れることを辞さないが 力を尽くさずして挫けることを拒否するが、最後に哀感と共に立ち現れてくるように感じられた。沢田の涙は、ラッツォともボビーとも異なっていたように思うけれども、その“不本意”についてはラッツォと、“悔恨”についてはボビーと重なる部分もあったような気がする。

 また当時、民衆の現実感覚から遊離した革命を標榜し、過激派の袋小路に入っていった若者たちやそのシンパとなった知識人やジャーナリストも含めて、新左翼の総体が、ちょうど“おバカな志を過ちと悟り、高価だったはずのウエスタンシャツもブーツもゴミ箱に捨てて、きちんと働く決意を固め直すジョー”の実にしょぼくも哀しい青春物語だった『真夜中のカーボーイ』に重なってくるところの窺える作品だったようにも思う。

 そういう造り建てそのものが、新聞社系雑誌の編集部で1ヶ月の無銭生活の体験記事を書いて“後ろめたさ”を口にし、先輩記者から、ジャーナリストには向かないセンチメンタリズムだとの指摘を受けていた沢田の体質であり、原作者たる川本三郎の持つものなのだろう。だが、赤邦軍を名乗った梅山[片桐優](松山ケンイチ)に騙されるような部分を“甘さ”という言葉で片付けたり、白石(三浦友和)のような“処理”に割り切って向かえるジャーナリストを僕は、あまり信用する気にはなれない。

 片桐が口にしていた“きっかけはTVで見た安田講堂事件”というのが本当のことかどうかはさておき、当時、全共闘に雪崩打っていった若者たちの大半が、商業メディア・ジャーナリズムに煽り立てられていた側面があるような気がしてならない。しかも商業メディア・ジャーナリズムにおけるシンパの根底は国家権力に挑む闘争性への親近感に留まったものにすぎないにもかかわらず、貧相な有り体の“ロゴスによる偽装というスタイル”までもが新左翼とは通底していたものだから、時代の風としての煽り立てにまで至ったのだという気がする。だからこそ、梅山のような人物が現れたのだろうと思わずにいられなかった。

 そういうなかで、取材源の秘匿というジャーナリストとしての核心部分に対して「連帯を求めて孤立を恐れず 力及ばずして倒れることを辞さないが 力を尽くさずして挫けることを拒否する」姿勢で臨もうとしていた“甘い”新米ジャーナリストが挫折によって抱えた屈託を綴った作品だったような気がする。それを観ながら、僕自身は、かつて志望したことのあるジャーナリストの道に歩み出ることなく済んで良かったと今さらながらに思った。

 そして、高校の生徒会活動や新聞部・文芸部の活動には携わりながらも、幸いにして僕は遅れてきたことによって、ハッタリめいたペダンティズムを纏った前橋勇[京大全共闘議長](山内圭哉)の言うような道楽としての革命なんぞに現を抜かすのではなく、たかだか映画を道楽とする程度に収まっていられて良かったとも、改めて思った。

 もし僕の生年が十年早く、'69年に大学四年を迎えていたら、その二十代は、どのようなものになっていたのだろう。僕が梅山を名乗った可能性というのは、今や“サイテー”の時の人たる斑目原子力安全委員会委員長ではないが、「ゼロではない」ような気がする。



推薦テクスト: 「シネマの孤独」より
https://cinemanokodoku.com/2019/03/28/mybackpage/
推薦テクスト: 「チネチッタ高知」より
https://cc-kochi.xii.jp/hotondo_ke/11060503/
推薦テクスト: 「なんきんさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1733332702&owner_id=4991935
by ヤマ

'11. 6. 1. TOHOシネマズ3



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>