【午前十時の映画祭】
『甘い生活』(La Dolce Vita)['60]
監督 フェデリコ・フェリーニ


 三十年近く前のリバイバル公開時に観て以来の再見だ。当時、二十五歳だった僕が今観て何を感じ、どう思うかが最大関心事だったが、大筋あまり違いはなかった。「しょうがねぇ奴らだなぁ」との思いに一つ加わったものがあるとすれば、“インテリの脆弱”という部分に対する思いの強度だという気がする。

 そもそも「甘い生活」などと訳しているからいけないのであって、ストレートに「甘ったれた人生」という題にすればいいのに、などということを思った。作家になれずに記者としてセレブリティの周辺を屯しているマルチェロ(マルチェロ・マストロヤンニ)の台詞に「報道と文学」という言葉が出てきていたが、彼が従事しているのは、報道というほどの代物ではないゴシップに過ぎない。

 それでもかつて作家を目指した程度にはインテリだから、一介のゴシップ記者とは違うところがあると目されていたからか、単に取材にとどまらない交友関係をそれなりに果たしていて、家庭的にも恵まれた知的生活を謳歌しているように見えるスタイナー家にも出入りしているわけだが、記者や作家という職業面にとどまらず、女性関係も含め、人生のすべての領域にわたって中途半端極まりない甘ったれた生活を送りながら、一端の苦悩を抱えている気になっているところが何よりも甘ったれの極地であるという人物を描いていたような気がする。

 マルチェロにとっての「報道と文学」を「ドキュメンタリーと芸術」に置き換えて浮かび上がってくるのがフェリーニ自身の問題意識だったのだろう。四年後の次作81/2では、まさに創作に苦しむ映画監督そのものを主人公に据え、本作同様に脚本・監督ともに担う形で撮りあげている。だが、本作では、そういったこと以上に自堕落や乱痴気に向かう退廃のほうに焦点を当てているように感じられた。表現者としての問題意識といったことをそれなりに考えながらも、やはり女好きの放蕩気分を最優先してしまう気質への自嘲もあったかもしれない。

 本作で完結せずに次作『81/2』に描かれた苦悩にまで向かわせたものの端緒が『甘い生活』には明示されていて、それこそが即ち、劇中でマルチェロに衝撃を与えていたスタイナー氏の自殺エピソードだったような気がする。本作にこのエピソードを置く元になったはずの、フェリーニ自身が衝撃を受けた“インテリの挫折”体験とは何だったのだろう。

 それにしても、アヌーク・エーメ(マッダレーナ)、アニタ・エクバーグ(シルヴィア)、イヴォンヌ・フルノー(エンマ)のいずれ劣らぬ美女ぶりには感心した。僕にはマッダレーナが一番魅力的に感じられたけれども、キャラクター的には、マリリン・モンローもどきの造形がされていたシルヴィアが最も面白く、辟易とさせる現実感では、エンマが一番だった。フェリーニとしては、女性に最も顕著な“女性的なる要素”を三人の女性の人物造形に託して描き出していたのだろう。

 もちろん見覚えのあったオープニングのヘリコプターに吊り下げられて“ローマの街を見下ろす形で空中を移動する大きなキリスト像”の圧倒的なイメージからして、非常に強い作家性に彩られた破天荒な作品で観応えがあるのだが、三時間を越える長尺が少々しんどく感じられる再見だった。



推薦テクスト:「一語一映」より
http://lawrenceco.exblog.jp/13749326/
by ヤマ

'11. 6. 5. TOHOシネマズ2



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>