【午前十時の映画祭】
『真夜中のカーボーイ』(Midnight Cowboy)['69]
監督 ジョン・シュレンジャー


 ニルソンの唄う「Everybody is talking at me」は耳に馴染んでいるし、トゥーツ・シールマンスのハーモニカで奏でられるジョン・バリーのテーマ曲も何度も何度も聴いたことのある映画ながら、初見の作品だ。今の感覚で言うとカウボーイとなるべきところがカーボーイとなっている邦題に、四十年も前の作品であることが偲ばれる。

 明るく長閑な曲調の「Everybody is talking at me」の流れるなか、ジョー(ジョン・ボイト)がこのまま西部の田舎で腐ってるわけにはいかないと、テキサスから東部の大都会NYに出るのはいいのだけれども、マッチョなカウボーイを気取り、自分をイケてると鼓舞しつつ、有閑マダム相手の男娼生活で身を立てようとするおバカな志にいささか呆れた。そもそもがベビーフェイス系の優男で恋人一人守れずに痛めつけられたくせして、そんな調子だから、それ相応以上の散々な目にも遭うわけだが、生来と思しき人の好さと、成り行きの縁で結ばれた友人ラッツォ(ダスティン・ホフマン)との出会いや看取りのなかで、おバカな志を過ちと悟り、高価だったはずのウエスタンシャツもブーツもゴミ箱に捨てて、きちんと働く決意を固め直す若者の、実にしょぼくも哀しい青春物語だったように思う。

 十年前にアメリカン・ビューティを観たときに作品タイトルにもなっている“アメリカの美”とは何だろうか。長年観てきたアメリカ映画を通じて僕が感じ取っているのは、タフでスマートでセクシーであることによって、特別な存在として目立ち、成功するということだ。多くのアメリカ人が、そのような自己実現を図らなければならないという強迫感のなかで生きているのではないかという気がする。と日誌に綴ったことを思い出した。当然ながらそんな自己実現の覚束ない人がたくさんいて、彼らにも当然のこととして人生があるわけだが、アメリカ映画が、そのような人々の姿を描くのは、ニューシネマ以前には有り得なかったのだろう。そういう意味で、本作がアメリカ映画史上、確固たる位置を占めるのは、実に頷けることのような気がした。

 日本語にすれば“ネズ公”ということになるらしいラッツォという呼び名そのもののような生活を送り、本名のリッツォが呼びにくければ、せめてリコと呼んでくれと求めても叶えられないままに死んでいった男の“アメリカン・ドリーム”とは無縁のとことん貧相で惨めな人生は痛烈だった。そして、彼を看取る脳天気な若者の青春もまた、本当にとことん貧しく惨めだったように思うが、青春などと言ってはみても、そうそう輝ける時代だったりするわけではない。本作ほどではないにしても、僕自身が冴えない青春を送っていた若い時分に観ていれば、さぞかし響いてきたような気がする。

 そのうえで目を惹いたのは、彼らの人生の惨めさに対し、“自己責任”などという言葉に顕著な酷薄な眼差しを向けたりせずに、むしろ社会の仕組みの不備を見て取っているように感じられる眼差しだった。'60年代というのは、そういう時代だったのだろう。だから、軽度とはいえ犯罪まみれの生活を重ねていることに対して咎める視線をいっさい排除しているように感じたのだが、それでもウォーホルのファクトリーと思しきNYのクラブパーティの退廃に向ける視線や、ジョーが男娼生活で身を立てるのは過ちだったと反省する姿を描いているところに、ある種の倫理観的な基盤があるように感じた。

 それで言えば、職業に貴賎なしとの金看板を建前に、臆面もなく野次馬根性を掻き立てる視聴率稼ぎのために、新宿の高額ホストクラブや銀座ホステスのナンバーワンを持て囃してTVに登場させ、遂には小学生の将来なりたい職業のトップテンにホストやキャバクラ嬢をランクインさせた日本の商業TVメディアの不見識というのは、本当に底知れぬものがあるような気がする。
by ヤマ

'11. 2.27. TOHOシネマズ2



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