『太平洋の奇跡−フォックスと呼ばれた男−』
監督 平山秀幸

 五年前に硫黄島からの手紙が公開されたとき、どうしてこういう作品が日本側から製作されないのかといった声が随分と挙がっていたような記憶があったせいか、日本映画なのに米軍兵士のナレーションで始まる構成に妙に嫌な感じを受けたが、エンドクレジットを見ていると、原作そのものが日本人ではなく、「敵ながら天晴れ」との米軍側からのものだと知って、納得した。

 それにしても512日とは凄いものだ。そして、民間人をないがしろにしない軍隊というものが現実にあって、投降させることと留まらせることのリスクを、苦境に追い遣られたなかで慎重に測ったうえで、民間人のみ先に投降させ、その命を守ろうとしていたことに感銘を受けるとともに驚いた。そのうえで、8月の敗戦の後12月まで時間を掛けてなお、きっちりと投降しているところが凄い。しかも、整然と隊列を組んだ行進と軍歌斉唱のもと、あれほどに誇り高き投降を実際に果たしているなら尚更に恐れ入るし、そのような受け入れ方を整える忍耐強さを保った米軍もまた大したものだと思った。

 そして、大場大尉(竹野内豊)が発揮していた“選択と勇気”というものは、指揮する側にあればこそ、とても重たく難儀であることに改めて思いが及んだ。あの赤ん坊の命を救ったエピソードも事実なら、本当に恐れ入る。僕が十代の頃、太平洋戦争に題材を得た『決断』という戦記アニメのTVシリーズがあって、興味深く観た覚えがあったことを思い出したが、大場大尉の決断が人道を外すことのなかった要因の一つには、彼が軍隊組織のなかでの上層部にまでは届かない尉官であって、佐官にも及んでなかったことによる組織体質への馴化の未熟さが功を奏している部分があったような気がしてならなかった。『硫黄島からの手紙』において、かなり理想化した国際人としてのキャラクター造形を施されていた栗林中将においてさえ、部下を率いて投降する選択と勇気を発揮できなかったことを思うと、改めて大場大尉の見事さが浮かび上がるとともに、大尉と中将の違いのほうに想いを馳せずにはいられなかった。

 むろん低位にあって不見識な輩はごまんといるのだが、たとえそれなりの見識と品格を備えた人物であっても、組織の上層部に昇進しつつも尚それらを維持して有能であり続けられる人物が稀有であるのは、『ピーターの法則 創造的無能のすすめ』ローレンス・J.ピーター/レイモンド・ハル著)の指摘を待つまでもなく見知っていることだ。それで言えば、中将にまで上り詰めながらの栗林忠道の有り様には、大場栄以上のものがあるということになるのかもしれない。

 映画としては、倶利迦羅紋紋を背負った今朝松一等兵(唐沢寿明)と米兵を殺したい思いに囚われて機銃の使い方を習っていた青野看護婦(井上真央)の存在が効いていたように思う。今朝松一等兵の体現していた創造的無能に含蓄があって、その限界と煌きが大場大尉の稀有な有能さとの対照を成していたような気がする。また、英語の話せる民間人の元木末吉(阿部サダヲ)の勇姿を描きつつ、彼を狙撃した木谷曹長(山田孝之)を悪役にしていなかったところがよく、思いのほか面白かった。



推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/hotondo_ke/2011/04/post-2b3f.html
推薦テクスト:「大倉さんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1674429353&owner_id=1471688
by ヤマ

'11. 3.20. TOHOシネマズ5



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