『塔の上のラプンツェル』(Tangled)
監督 ネイサン・グレノ&バイロン・ハワード


 いくらでも寓意を折り込むことのできそうなグリム童話をかように徹底的に楽観的な恋愛至上主義のファンタジーにしてこそのディズニーアニメだが、やはりこれだけの躍動感と明るさには他の追随を許さない卓抜したものがあって、気持ちがいい。

 そして、ラプンツェルに限らず「女の子は、みんな魔法のかかったお姫様なのよ」というような感じの肯定感に満ちた映画だったから、女性たちは大いに満足するに違いないと思った。とりわけ気ままな泥棒稼業に現を抜かしていたはずのフリン・ライダーが瀕死のさなかに己が命のことよりもラプンツェルの救いを優先した場面が、実に巧妙だったように思う。たとえ貴重なスーパーパワーではあっても、彼女の不幸の源泉とも言うべきものに対して、彼女自身では切り捨てられないから、彼女の解放のためだけにその価値を充分知りながらなお、己が命に替えて断ち切った献身ぶりに心打たれるのだろう。しかも、今わの際に彼女の顔を引き寄せ、別れのくちづけを交わすと見せかけて不意を突く演出を加えるという、常套といえば常套の効果増幅を施しているから、大いに盛り上がるわけだ。

 さらに、夜な夜な塔に招き入れ、魔女の目を盗んで情交を交わし身籠っていたとされる原典のラプンツェルとは違って、このとき交わしかけたくちづけこそが、あたかも幻のファーストキスであったかのように思える運びにしているところが悲劇性をいや増す形になっていて、さればこそ、ラプンツェルの零す涙の呼び起こす奇跡がぴたりと嵌ってくる。魔女による制裁の断髪が“運命の恋人による救済の断髪”に改変されているところに、ディズニーアニメの真骨頂と呼ぶべきものがあると思った。

 そのうえで、母娘関係の相克を想起させなくもないスパイスを微妙に利かせているところが加えて巧妙だったような気がする。原題を敢えて“Tangled(もつれた)”としているのは、それゆえなのかもしれないが、育ての親たる魔女には閉じ込め以外の虐待は何もなく、むしろきちんと育て上げているところがミソだった。そして、その言い分は、けっこう多くの世の母親たちが娘に対して加える制約と違いがなく、手法や内容さえもが似通っていて、違いというのは、世の多くの娘にはスーパーパワーを蓄えた金色に輝くロングヘアが備わっていないということだけだったように思う。だからこそ、この作品に描かれたラプンツェルを観て、むしろ“「女の子は、みんな魔法のかかったお姫様なのよ」というような感じの肯定感”を覚えることができたような気がする。

 また、それには、ラプンツェルがその若さと屈託のない天真爛漫さによって、酒場に集う荒くれ男ども全てを難なく手懐けてしまう全能感も大きな作用を及ぼしていて、そのように考えると、結局のところ「女の子は、みんな魔法のかかったお姫様なのよ」なるものの正体として、金色に輝く魔法のロングヘアとは即ち、その若さと前向きな明るさに他ならないことをディズニー的なジェンダー観として提示しているような気がした。



推薦テクスト:「ミノさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1692837010&owner_id=2984511
推薦テクスト:「なんきんさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1729885161&owner_id=4991935
by ヤマ

'11. 3.20. TOHOシネマズ2



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