【午前十時の映画祭】
『ゴッドファーザーPARTⅡ』(The Godfather:partⅡ)['74]
監督 フランシス・コッポラ


 今世紀になってからのリバイバル公開時に観たのは、前作ゴッドファーザー['72]のほうだけだったので、何十年ぶりかでの再見となるわけだが、やはり大した作品だ。午前十時からの三時間半を些かも長いと感じないで堪能できた。

 前作と対照して思うのは、ヴィトー(マーロン・ブランド)の不本意とマイケル(アル・パチーノ)の不本意は、ともに新たな事業拡大によって見舞われていたような気がするということだった。前者は麻薬取引、後者はキューバ利権。どちらもリスクを承知で、信用しきれない相手との事業提携を機に悲劇に見舞われ、それぞれ最愛とも言うべき“ファミリー”の子供を失う。

 後継者と目していた長男ソニー(ジェームズ・カーン)を失うことでマイケルを裏社会へ引き入れざるを得なくなったヴィトーの不本意と、産まれる前の息子を事もあろうに妻からの敵意という形で失ったマイケルと、どちらの痛手が大きいかは一概に言えるものではないけれども、ドンとして頂点に立つ代わりに負った孤独の深さ哀れさにおいては、マイケルのほうが過酷だったような気がする。

 だがそれは、マイケル自身が漏らしていたような“時代の違い”やケイ(ダイアン・キートン)が夫に指摘していた“You are blind”ということ以上に、マイケルが強大な先代を継いだ二代目であるという状況のもたらしたもののような気がした。そして、ヴィトー(ロバート・デ・ニーロ)にとってのクレメンザやテッシオのような形で、ともに並んで歩みを重ねることのできた仲間がいなくて、最初からドンの息子であることの負っている弱みは侮れないものだと改めて思った。

 また、対照という点でとても興味深かったのは、カルメラとケイという二人の妻だったような気がする。ヴィトーは、ファヌッチ(ガストーネ・モスキン)のせいで失業するまで、その存在自体を知らなかったくらいに暗黒街とは無縁だったわけで、既に長男ソニーも生まれているなかでの失業ということがなければ、そう易易とクレメンザの誘いに乗って窃盗稼業に手を出すことはなかったように思う。だから、カルメラにとってはケイ以上に、夫の転身が予期せぬものだったはずで、彼がドンとしての階段を登る姿をどのように見、夫婦の間で何が語られたかは、実に興味深いところだ。映画では、それについては全く描かれていなかったように思うけれども、少なくともケイとは大きく違っていたような気がする。二人の妻のその違いのほうは、それこそ“傑出した先代を継いだ二代目ゆえ”などではなく、“時代の違い”だったような気がしてならない。

 そして、ヴィトーの行なっていた“血と情による組織の統帥”を、ビジネスへの転換による組織化を果たす方向へマイケルが変えていこうとしていたのは、自分には父親のようなカリスマ性はないという冷静な自己分析によるものだけではなく、ある意味、妻ケイの求めに真摯に応えようとして始めたことだったのではないかという気が僕はしている。ところが、カリスマ性に頼らないビジネスライクな統帥でそれを果たそうとすることは、父親以上の非情を背負わないと適わないことだったということなのだろう。

 誰にも心を許さず、ロス(リー・ストラスバーグ)にもフランキー(マイケル・V・ガッツォ)にも二枚舌で探りと鎌をかけつつ手玉に取ろうとする姿には気の毒なまでのものがあったが、余りにも利用されやすく情けない兄フレド(ジョン・カザール)を始末せざるを得なくなるのは、ある面、フレドの自業自得で止む無くあったとしても、遂にはトム(ロバート・デュバル)に対してまでも、愛人がいることや引き抜き話があったことを調べ上げ、威圧しないではいられなくなっている姿には、ケイに愛想をつかされても仕方がないまでの体たらくが窺え、実に哀れだった。同じように威圧を感じさせても、ヴィトーが頭に指を二本当てて「忘れないからな」と口癖のように語り、実行してきていたものと比べ、身も蓋もない御粗末さで、かつてのマイケルなら絶対にしなかったことのような気がした。
by ヤマ

'11. 9.23. TOHOシネマズ3



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