『ブルーバレンタイン』(Blue Valentine)
『キッズ・オールライト』(The Kids Are All Right)
監督 デレク・シアンフランス
監督 リサ・チョロデンコ


 選択された結論は両作品で対照的だったが、どちらの映画とも夫婦として“共に生きていく”ことの難儀と綾というものを確かなデリカシーによって浮かび上がらせている秀作だったように思う。こういう絶妙のカップリングによる2本立てが割安料金によって提供されるところこそが名画座の醍醐味だ。飯田橋ギンレイホールでは、そのプログラミングの魅力もさることながら、当日料金1500円で観られるばかりか、10500円の年間フリーパスで楽しめる仕組みも用意されていて、大いに感心した。開場前に路上から地下鉄口の階段にまで連なる行列が出来ていた理由はこれだったのかと納得したのだが、名画座にこれだけの客が入っているのを眺めると、それだけでも気持ちが華やいでくる。


 先に観た『ブルーバレンタイン』の夫婦は女医(ナースが絶対にしないとは言えないけれども、確か聴診器を掛けていた場面があったように思うので、僕は医者だと解していたが、IMDBに”Cindy working as a nurse in a medical clinic ”と書いてあると教えてもらった。もっとも、宣材のチラシやgoo映画の「あらすじ 解説」に書いてあることは、けっこう出鱈目だったりするので、DBだけでは当てにならないのだが、教えてくれた人の記憶でもナースだったとのこと。でも、作品的には志望どおり女医になっている設定のほうがずっといいように思われるのだが…。)と塗装工の若いカップルだったが、不慮の妊娠問題を抱えていたときに支えられ、血の繋がらない子の父親になることを引き受けてくれた家族愛至上主義の夫との生活のなかで、次第に感覚がずれてきている二人の様子に、得も言われぬ哀しみと現実味のある納得感が宿っていて無性に切なかった。癒しや寛ぎに恵まれず裕福ではなさそうな家庭に育ちつつ、学業に秀でることでの階層アップを果たすだけの意志の強さを備えたシンディ(ミシェル・ウィリアムズ)だっただけに、思わぬ妊娠で受けたダメージの大きさが偲ばれ、その苦境を支えてくれたという一点でディーン(ライアン・ゴズリング)にのめり込んだわけだが、ライアン・ゴズリングの好演もあって、その様子に強い説得力があった。

 だが、その苦境さえなければ、元々の相性には恵まれていない二人だったような気がする。精神的のみならず肉体的にも大きな負担があるなかで初志を貫き女医になるだけの克己心でもって人生に向かうタイプのシンディにとって、家族と楽しく過ごすことが全てで自己実現などということには凡そ関心がなく、持てる才能や興味を社会的に開花させようと試みることもしない夫の姿には、おそらくは次第にであろうが確実に、言わば苛立ちに近い感情さえ抱くようになっていたのだろう。娘に対しても、躾などよりふざけてじゃれ合う楽しさを優先させることで、母親たる自分の心を逆撫でしてくるように感じていた気がする。ミシェル・ウィリアムズのニュアンス豊かな演技によって、そういったディーテイルの描出に納得感があったから、どちらが悪いといった因果とは別のところで“共に生きていく”ことが適わなくなる様子が痛切に描かれていて、ふと春の日は過ぎゆくのウンスを思い出した。彼女がサンウと“共に生きていく”ことを選んでいたら、おそらく本作のシンディと同じ日々を迎えていたに違いない。

 どちらの作品でも、得心できないままに相方から突き付けられた別れを受け入れるしかない男の姿がとても印象深く、自分が自分であるが故に受け入れられ、変わらぬ自分であればこそ別れを告げられるに至るという不条理は言っても始まらないこととして受け入れた顛末の最後に、ある種の吹っ切れ感が宿っているように感じられたのが見事だった。


 続けて観た『キッズ・オールライト』の夫婦は女医と主婦の中高年に至ったゲイカップルだったが、敢えてゲイカップルを描いたことで、夫と妻の間に起こるありがちな関係性のずれと絆というものが、性別によるもの以上に、家族という最小単位を含めた“社会的役割と位置付け”によるものであることを顕著に浮かび上がらせていたような気がする。それを効果的に働かせていた視点が実に鮮やかで見事だった。

 そのうえで、セクシュアリティやジェンダーとして意識づけられる性についての考察以上に、家族を構成し支えているものについての捉え方に含蓄があって、なかなか素敵な作品になっていたように思う。それは、自分と相方それぞれの卵子への人工授精によって儲けた男女二人の子供を育て、思春期さなかの子供の親になっているゲイカップルの前に現れた、二十年近く前の精子提供者の存在という特異な舞台設定を十分に活かした人物造形とその描写が的確だったからにほかならない。

 一家の長であり主導権を握っている自分のポジションを揺るがせかねない男性闖入者として警戒していた精子提供者のポール(マーク・ラファロ)と、ベストアルバムは『BLUE』だとの見解で一致し二人で合唱した際に、ジョニ・ミッチェルが好きでその良さが判るのはゲイ以外にはいないと思っていたと語るような女医ニック(アネット・ベニング)の思い込みの強い独善性と支配性は、多くの夫婦物語で妻の側が抱く夫への憤慨の最たるものとして描かれる、余りにも普遍的なもので、レズビアンのゲイカップルにしてやはりそうなのかと却って意表を突かれたが、まさしくそれは性別の問題ではなく社会性の問題であるということなのだろう。さすれば同様に、多くの夫婦物語で妻の側が抱く夫への不満の最たるものとして描かれる、一人格としてきちんと認めてもらえないというジュールス(ジュリアン・ムーア)の思いもまた、女性問題ではなく社会問題に他ならない。

 そのように考えると、全ての性の問題は生物学的差異に起因するのではなく、社会問題であるようにも思えてくるのだが、二人の子供である18歳の娘ジョニ(ミア・ワシコウスカ)のデリカシーと裏腹の思い切りのよさとか15歳の息子レイザー(ジョシュ・ハッチャーソン)の脳天気さと屈託のなさの現れようを観ていると、やはり社会性に留まらない生物学的差異を強く意識づけられる人物造形が施されていたように思う。実に巧く対照を利かせた配置だ。そして、その最たるものは、やはりポールの人物造形だったような気がする。ヘンに肩肘張ったフェミニズム色とは無縁の作品で、作り手の人間観察の確かさが現れており、大いに好もしかった。

 その人間模様の根幹にあったのは、ある種の大らかさだったように思う。「(親がどうであれ)子供たちは大丈夫なんだよ!」という原題の意味するところは、もちろん「きちんと向かい合ってさえいれば、少々のことでは」という部分があってこそのものではあるけれど、同じく愛すべき子供を儲けていながら『ブルーバレンタイン』の若い夫婦が懸命に修正を施そうとして埋められなかった“ズレ”というものを、『キッズ・オールライト』のゲイ夫婦は、敢えて埋めようと足掻くこともないままに、結局は押し流すことができていた。それだけの力が、共に暮らし子供も儲けて過ごした年月の積み重ねた絆にはあるということなのだろう。ジュリアン・ムーアとアネット・ベニングのコミカルさをたたえた大熱演に支えられた堂々たるエンタテインメントだった。大したものだ。



*『ブルーバレンタイン』
推薦テクスト:「映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20110528
推薦テクスト:「TAOさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1718362234&owner_id=3700229
推薦テクスト: 「なんきんさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1731791931&owner_id=4991935
推薦テクスト:「田舎者の映画的生活」より
http://blog.goo.ne.jp/rainbow2408/e/c436b34e1f388ba4a9e21f6a20c6be73


*『キッズ・オールライト』
推薦テクスト:「映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20110503
推薦テクスト:「TAOさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1714617592&owner_id=3700229
by ヤマ

'11. 9. 4. 飯田橋ギンレイホール



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